プラトン「ティマイオス」に関する覚書 3
プラトンの後期対話篇「ティマイオス」(『ティマイオス/クリティアス』白澤社)に就いて書く。
「ティマイオス」の宇宙論において、プラトンは従来の「生成/実在」の理論的区別に加えて、第三の要素を導入する。「コーラ」(chora)と呼ばれる、その第三の要素は、実在の形相に基づいて行われる生成を受容する「場」であると説明される。しかし、この「場」という訳語の字面に引き摺られて、「コーラ」という概念を特定の物理的な空間として捉えるのは軽率な謬見である。
一見すると、この「コーラ」という概念は、古典的な原子論における「空虚」(kenon)の概念に類似しているように思われる。しかし、この「コーラ」は単なる「存在の欠如」を意味するものではないし、必ずしも事物の生成に先立って存在する実体的な空間であるとも言い切れない。それはあらゆる種類の事物の生成を受け容れるがゆえに、如何なる固有の形態も特質も持たず、感官を通じて捉えることも出来ない。感官を通じた把握が不可能であるという意味では、この「コーラ」は超越的な実在としての「イデア」に類似している。しかし、プラトンは明晰な筆致で「コーラ」と「イデア」との混同を戒めている。「コーラ」は事物の本質としての「イデア」ではなく、超越的な「イデア」に基づいて生成が行われる場合の、その舞台装置のようなものである。しかし、それは生成する事物から離れて独立的に存在する何らかの実体ではない。そもそも、プラトンの考えでは、生成する事物は飽く迄も単なる現象であって、それ自体では如何なる同一性も保持し得ないものである。「コーラ」は、その意味で何らかの物理的な実体ではないが、事物の生成を可能にする不可視の領域、その存在が理論的に推測される透明な空虚、存在の欠如としての空虚ではなく、存在そのものを可能とするような、純然たる存在そのもの、言い換えれば「有」そのものである。但し、この場合の「有」という概念は、所謂「イデア」とは異なる。何故なら、あらゆる「イデア」は恒常的な同一性を永久に失うことがなく、如何なる生成とも無縁で、その性質を全く変化させることがないからである。他方「コーラ」は、あらゆる種類の「イデア」に基づいて創出された多様な事物の生成的な現象を悉く受容し、感覚的な表象として現前させる。その意味では、この「コーラ」という概念は恒常的な同一性を持たず、固有の本質を備えることもない。従って「コーラ」を「イデア」の範疇に組み入れることは論理的に不可能である。
言い換えれば、この「コーラ」という概念は「生成」そのものであり、あらゆる「生成」を受容する透明な媒体であると考えられる。それは存在の欠如としての「空虚」ではなく、あらゆる生成と不可分に顕れる見えない土台のようなものである。そして恐らく、この「コーラ」という概念は「時間」の誕生と共に生み出された相対的な遷移の領域である。若しも如何なる種類の「時間」も流れず、事物の生成変化が一切行われないとしたら、世界は完全に無時間的な「イデア」の林立する領域となり、従って「生成の場」としての「コーラ」の介在が要請される理由は消滅する。
言い換えれば、プラトンはこの世界に「生成」が存在することを認めている。一切の生成を感覚的な謬見として、つまり単なる錯覚として棄却したエレア派の実在論的なラディカリズムに比べれば、プラトンの考えは遥かに穏当で妥協的である。用語の混乱を避ける為に、ここで「実在」と「存在」との区別を済ませておこう。「実在」という観念は、恒常的な同一性を保つ「存在」を指している。パルメニデス以来の厳格な議論に依拠すれば、あらゆる事物は「実在するか否か」の何れかに当て嵌まるのであり、所謂「生成」は感覚の生み出す虚偽の認識に他ならない。こうした考え方が、プラトニズムの或る側面を極端に純化し、拡張した論理であることは明白である(歴史的には、パルメニデスを始祖とする「エレア派」の思想の方が、プラトンに先行している)。「感覚」が純然たる「虚偽の認識」に過ぎないのであれば、所謂「アイステーシス」(aisthesis)を通じて、存在の「実相」に至ろうとする経験論的な方針が、欺瞞的な態度として排撃されるのは当然の帰結である。パルメニデスにおいては、この世界には「実在」のみが存在する。従って殊更に超越的な「実在」としての「イデア」を想定する必要が生じない。感覚的認識は不当な謬見に過ぎず、無根拠な幻影、或いは肉体的な「仮象」に過ぎない。つまり、感覚的表象は存在しない。従って、パルメニデスは「生成的存在」に関する考究に価値を認めないのである。
けれどもプラトンは、エレア派の思想から濃密な影響を蒙りつつも、生成する事物の物理的な存在自体は認める。そこから「イデア」の「分有」(methexis)という考え方が導かれるのである。彼の思想は、パルメニデスにおける「実在」の論理と、ヘラクレイトスにおける「生成」の論理との有機的な統一という壮大な企図に向かって捧げられているのである。超越的な「イデア」が地上的な個物の裡に断片的な仕方で「臨在」(parousia)するというプラトンの考え方は「実在界」及び「生成界」の両立と併存を認めていることの証左である。感覚を通じた認識が、本来的な「知識」(episteme)の把握には至らないと看做しつつも、感覚を通じて把握される生成的な事物の「存在」そのものは容認しているのである。そして生成的な事物の存在を包摂する領域として、或いは生成的な事物の総体として「コーラ」の概念が導入される。「コーラ」は「イデア」の「似姿」(eikon)が生成され表象される透明な舞台である。言い換えれば、それは生成的事物の「存在」そのものである。何らかの個物が感覚的な世界において「存在している」という事実自体が「コーラ」の本質なのである。
「イデア」の複合的な「分有」の過程が「生成」と呼ばれる。この「生成」の領域においては、恒常的な同一性を保持する「実在」は何処にも存在しない。唯物論的な思想家たちは、それゆえに「万物流転」(panta rhei)の無常観を採用し、飽く迄も感覚的な個物を「実体」と看做しながら、それらの運動と変異を支配する一般的な規則を「ロゴス」(logos)として抽出しようと試みた。それは感覚的認識の内部における整合性の確立を求めるものであるから、そもそも感覚的認識を「謬見」(doxa)として斥けるプラトンのエレア派的な主張とは対立する。プラトンにとって感覚的認識の世界は「イデア」の堕落した形態、超越的な秩序の壊乱された状態を意味するものであるから、感覚的認識の内部における整合性を問うことは無益な徒労に過ぎないのである。地上の感覚的世界には、打ち砕かれた「イデア」の破片が無数に散らばり、無作為に結合して、純然たる「本質的実在」の顕現を妨げている。これらの度し難い混乱を整除し、本来の普遍的な秩序に還元することが、プラトンにおける「思惟」の目的である。