サラダ坊主日記

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アリストテレス「ニコマコス倫理学」に関する覚書 3

 古代ギリシアの哲学者アリストテレスの『ニコマコス倫理学』(光文社古典新訳文庫)に就いて書く。

 さて、以上述べてきた事柄にかんして、ひとつ異論があるだろう。というのも、[イデア論者の]諸説はありとあらゆる善について述べられたものではなく、それ自体で追求され好まれているものごとは、たしかにひとつの善のイデアに基づいて善いと述べられているのであるが、そうしたものごとを作り出したり、なんらかの仕方で保全したりする事柄や、あるいはそれら善いものごとと反対のものを防ぐ事柄のほうは、それらのものごとゆえに、つまり[それらとは]別の仕方で善いと述べられているからである。そうすると明らかに、もろもろの「善」は二通りの仕方で善いと述べられることになる。[すなわち]一部分はそれ自体で善いのであり、またそれとは別の一部分は、それら[それ自体で善いもの]のゆえに、善い。したがって、[後者の]有益なものと、[前者の]それ自体で善いものを分けた上で、これらそれ自体で善いものがひとつのイデアに基づいて語られるのか否かをわれわれは吟味しよう。(『ニコマコス倫理学光文社古典新訳文庫 pp.46-47)

 アリストテレスは師父プラトンの提示した「イデア」(idea)の学説に就いて批判的な検討を試みている。感性を通じて捉えられる生成的な個物は、永遠的で超越的なイデアの不完全な模倣に過ぎず、イデアの一部を分有するものに過ぎないというプラトンの考え方は、理性的認識の絶対的な優越の論拠としての役割を担っている。理性的認識の揺るぎない真理性を保証する為に、プラトンイデアを個物に先行する実在と定義し、現実に存在する多様な個物の流動性を単なる「虚妄」の範疇へ幽閉した。それによって純然たる理性的認識の正当性を確保したのである。しかしアリストテレスは、そうした考え方に複数の論理的瑕疵を発見している。感覚を全面的に排除して、理性や言語の力だけで世界の実相及び真実を把握し得るというプラトンの見解は、宇宙の総体を一つの記号的な体系に還元するものである。プラトンにとって超越的な実在は、時間の経過に伴う一切の変貌や生滅を拒絶している。善のイデアは、未来永劫に亘って同一の性質を保持し続けるのである。それゆえ「善」の定義は時間的にも空間的にも揺るぎない恒常性を維持する。だが、それは本当に「善」に関する我々の考え方に適合しているだろうか。「善」という概念が指し示す内容は、如何なる歴史的変遷も辿らず、如何なる地理的な差異も含まないと断言出来るだろうか。

 では、人はどのような種類のものを「それ自体で善いもの」とするのだろうか。「ほかに何もなくとも追求されるもの」がそうなのだろうか。たとえば、思慮をはたらかせることやものを見ること、あるいは或る種の快楽や名誉がそうなのか? というのも、別の何かのゆえにもわれわれがこれらを追求するとしても、それにもかかわらず人は[それらを]それ自体で善いもののひとつであると考えることができるだろうから(あるいは、[それ自体で善いものは善の]イデア以外には何もないのだろうか? その場合イデアは[ほかのことの役に立たないので]無駄であろう)。もしそれら[自体としてもほかのもののゆえにも追求されるもの]がそれ自体で善いものに属するのであれば、それらすべてにおいて、善の定義が同一のものとしてあらわれなければならないだろう。それはちょうど、雪と白チョークにおいて、白さの説明が同じになるように。しかし、名誉や思慮深さや快楽についていえば、それらの説明は、[それらが]善いとされるまさにその点において別々であり、異なっているのである。したがって、「善」とは、ひとつのイデアに基づいた共通のものではないのである。(『ニコマコス倫理学光文社古典新訳文庫 pp.47-48)

 「善」という概念に一義的な意味を認めることが出来ないのならば、必然的に「善のイデア」を措定することは不可能であると判断せざるを得ない。言い換えれば、一つの「イデア」は常に単一の本質と結び付いていなければならない。仮にイデアが複数の本質と結び付き得るのならば、そもそも事物を「本質」と「偶有性」に区分する論理的な措置自体が破綻することとなるだろう。イデアの措定は、事物の「本質」の定義によって明確化される。しかし、プラトンの考えでは、事物の「本質」は具体的な個物に先行し、それらの個物を生成する源泉の役目を担っているのである。そうであるならば、つまりイデアが実体的に存在するものである限り、イデアの措定の可否は、人間による審判の領域を超越していると看做されるべきである。

 プラトンイデアに関する議論は、原子論の一種であると言えるかも知れない。但し、イデアは相互に同質なアトムとは異なり、それぞれが単一の本質を宿し、原則として混在しない。現実的な個物が複数のイデアを分有しているように見えるのは、プラトンの考えでは肉体的な感官に由来する錯覚であり、謬見である。そうであるならば、例えば「白い雪」という感覚的表象は錯覚であり、理性によって把握される場合には、例えば「白のイデア」と「雪のイデア」がそれぞれに独立して、自己の領分を厳守しながら並列していることになるだろう。

 それならば、我々は如何にして「イデア」を見出すのだろうか。感覚を通じて享受される個物や事象の総てに関して、等し並みにイデアが存在する訳ではないのならば、我々はどうやってイデアの綜合的な目録を把握し得るのか。「善のイデア」と「善」は合致しないのか。それならば「善のイデア」が司っている対象としての「善」は如何なるものであり、同時に我々が日常的な仕方で「善」と判断している事物は、実際には「善」に値しない、異なる何かであるという結論に至るのだろうか。個物としての「雪」は「雪のイデア」を分有しているのか。それとも「水のイデア」に偶有性が附加されたものなのか。そもそも眼に映じる事物が総て虚妄であり、イデアに基づいた正しい境界線に則って把握されていないのならば、例えば我々は「雪」にイデアが有り得るか否かを判定し得ないだろう。「雪」が一つの「本質」を成すのか、複数の「本質」の連合によって形成された偶有性の合金に過ぎないのか、それらを判定する根拠を、我々は持ち得ないのである。更に言えば、そのような判定を為し得ない状態では、イデアが個物に先行して実在すると断定することも、根拠を欠いている為に不可能であるという結論に達するだろう。

 人間そのものを定義するにしても、[現実の]人間を定義するにしても、人間の定義はいずれにおいても同一になる以上、[イデア論者たちが一般に]「~そのもの」[という特殊な言い方]でいったい何を言おうとしているのかと、難問に悩む人もいるだろう。というのも、人間であるという点で、この[人間そのものと、現実に生きているもろもろの人間の]両者に異なるところは何もないだろうからである。またそうだとすると、「善である」という点で、善のイデアと善とのあいだに異なるところは何もない。また、長期にわたって白いものが、一日だけ白いものよりもいっそう白いというわけではない以上、永続的であるという点で善のイデアがより善いということはないだろう。(『ニコマコス倫理学光文社古典新訳文庫 pp.45-46)

 仮に「人間のイデア」が超越的な仕方で実在するとしたら、必然的に現実の個体的な人間は「不完全な人間」であるということになる。そうであるならば、果たして「完全な人間」とは如何なる状態を意味していると考えるべきだろうか。「完全に正しい人間」や「完全に美しい人間」だろうか。しかし、これらの状態は「人間のイデア」に「正しさ」や「美しさ」のイデアが偶有的に附加されているものなので、純然たる「人間のイデア」を体現しているとは言えない。或いは人間性の根拠を「理性」に求める古代ギリシアの伝統に倣って、純然たる「理性」を「人間のイデア」と看做すべきだろうか。しかし、この場合「人間のイデア」と「理性のイデア」とは同一のものなのだろうか、それとも異なるものなのだろうか。また「理性」以外の「感情」や「欲望」や「肉体」を欠いた「人間」が「人間のイデア」と完璧に合致していると考えるのは適切な解釈ではないだろう。イデアの措定が厳密な「本質」に基づくと看做される限り、こうした類の問題は決して消滅しないだろうと思われる。そもそも、何らかのイデアが「人間」という生物学的な種族を司っていると考える根拠も、考えない根拠も、我々の掌中には収められていないのである。例えば「人間」の「本質」を特定の遺伝子配列に求めるとしても、そのような遺伝子配列そのものと、超越的に実在する「人間のイデア」とが同一の存在であると看做すのは不自然である。イデアを超越的な実在として定義し続ける限り、我々は「分類」の根源的な相対性によって、イデアの措定に関する諸々の困難と矛盾に苛まれざるを得ないのである。

ニコマコス倫理学(上) (光文社古典新訳文庫)