サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

審美的なデミウルゴスの肖像 三島由紀夫「女神」

 三島由紀夫の小説「女神」(『女神』新潮文庫)に就いて書く。

 この作品は、妻を「女神」に仕立て上げようとして中途で挫折し、今度は娘を「女神」として完成させるべく、異様な審美的情熱を燃え立たせる男の物語である。彼が「女神」という観念に充塡する感覚的な規範の細目は夥しい数に上る。服装も化粧も挙措も、悉く絶対的な「美」の基準を満たすように調整され、統制される。この耽美的な欲望は、例えば谷崎潤一郎の「刺青」を想起させる。

 三島の審美的な欲望は、神秘主義的な性質を帯びている。彼が求めるのは如何なる瑕疵も含まない純然たる完璧な「美」の顕現であり、そのような妄念に囚われることは彼の終生の宿痾であった。例えば彼の代表的な傑作である「金閣寺」は、絶対的な「美」の観念に魂を占有された男の苦闘、つまり生成的な「現実」へ向けた解放の戦いを精密に描いている。

 抽象的な観念の世界では、如何なる事物も偶有的な夾雑物を除かれて、極限まで純化されることが可能である。「美」という感覚的な観念もまた、あらゆる瑕疵を排された神的な状態で、人間の空想の世界に君臨することが出来る。状況に応じて美しく見えたり醜く見えたりするものは、観念の世界においては純然たる「美」の資格を喪失する。醜く見えることは「美」の普遍的な本質に反する現象であるから、それは絶対的な「美」の観念からは排除されなければならない。こうして論理的に純化された「美」の観念は、想像の裡で育まれ磨き抜かれた「心象の金閣」と同じく、人間の脳髄の内部に閉じ込められている。

 「金閣寺」の若い寺僧である溝口は、本物の鹿苑寺金閣と初めて対面したとき、理想と現実との断層に面食らい、聊か倒錯的な感想を懐く。

 私は金閣がその美をいつわって、何か別のものに化けているのではないかと思った。美が自分を護るために、人の目をたぶらかすということはありうることである。もっと金閣に接近して、私の目に醜く感じられる障害を取除き、一つ一つの細部を点検し、美の核心をこの目で見なければならぬ。私が目に見える美をしか信じなかった以上、この態度は当然である。(『金閣寺新潮文庫 p.33)

 肉体的な知覚によっては「美しくない」と判定される対象が、その本質的な美しさを「秘匿している」と看做されるのは、正にプラトニックな本質主義的思考の典型である。彼は「観念」の揺るぎない実在性を信仰しているのだ。だが、彼が純然たるプラトニストではないことは、引用した文中の「目に見える美をしか信じなかった」という部分によって傍証されている。何故なら実在論の教祖であるプラトンは、本質的な「実在」(idea)を感覚によって捉えることは不可能であると明言しているからである。絶対的な「美」の象徴が、地上の具体的な個物と同一視されること自体、プラトニズムの論理からは逸脱している。しかし、三島の劇しい欲望は「イデア」が知性的思惟の領域に留まることを容認しない。彼は絶対的な「美」を、飽く迄も肉体的な知覚を通じて捉えたいと願っているのだ。「イデア」が不可知の観念のままに留まるのならば、一瞥を呉れる価値さえない。

 完璧な美しさと、地上において邂逅すること。これが三島の見果てぬ宿願である。その欲望は「女神」において、造物主であろうとする意志に転換されている。彼は絶対的な「美」の不在を慨嘆する代わりに、それを自らの手で作り出そうとする。その情熱的な野心は、誠実で繊細であると同時に、非人間的な酷薄さを併せ持っている。火傷によって自己の審美的な価値を失った配偶者の絶望と怨恨に、造物主である周伍は倫理的な共感を寄せようとはしない。彼にとって妻子の存在は、芸術的な造形の欲望に相応しい優れた原料に過ぎないのである。無論、彼は妻子を愛していない訳ではない。精魂を傾けて作り上げた被造物に愛情を寄せない造物主はいないだろうから。つまり、彼は対等な人格に対して愛情を捧げるのではなく、飽く迄も自身の「作品」に情熱的な思い入れを示しているのである。

 こうした非人間的な関係が、第一の被造物である妻の依子の裡に蓄積した濃密な憎悪を、造物主である周伍は聊か迂闊に軽んじ過ぎていたと言えるだろう。積年の怨恨に凝り固まった依子の謀略によって、周伍は半生を通じて懐き続けてきた精巧な夢想を蹂躙され、その甘美なロマンティシズムを侮辱される。だが、それは本当に周伍の敗北であると言えるだろうか? 物語の掉尾にて、周伍の渾身の力作である娘の朝子は、忌まわしい愁嘆場など意に介さず、いわば「作品」として完成を遂げるのである。

 朝子はふしぎに、父と自分とが、まるで別な道をとおって、ひとつところに落合ったとしか思えなかった。彼女は今しがたうけた醜い打撃などに少しも傷つけられていない、不死身の、新らしい朝子が、自分のうちに生れるのを感じた。人間の悲劇や愛慾などに決して蝕ばまれない、大理石のように固く、明澄な、香わしい存在に朝子は化身した。

「お父さま、私を見て」と朝子が言った。「私ちっとも驚いていないわ、私……」

 周伍は娘を見上げた。

 朝子の頬は上気し、目はまことに美しくかがやいていた。窓からの夕風が、髪を少しばかり乱していた。これはまったくの女神だ、と周伍は思った。(「女神」『女神』新潮文庫 pp.156-157)

 つまり周伍は、絶対的な「美」のイデアとしての「女神」の創造に成功したのである。それは言い換えれば、朝子の人格を感覚的な生成の原理から切断すること、人間的な感情や欲望からの超越を命じることに等しい。そのとき、周伍が覚える歓喜は、娘に対する近親姦的な肉慾であろうか? いや、既に朝子は普遍的な範型としての「女神」に化身したのだから、親子という地上的な紐帯など一銭の価値も持たない筈である。この終局の恩寵に満ちた光景は、神秘主義的な「法悦」(ecstasy)の感覚的現前を想わせる。周伍は「肉体」を通じて「肉体の超越」を経験するという不可能な夢想を叶えたのである。

女神 (新潮文庫)

女神 (新潮文庫)

  • 作者:三島 由紀夫
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 2002/11
  • メディア: 文庫