サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

絢爛たる美的本質への回帰 三島由紀夫「孔雀」

 三島由紀夫の短篇小説「孔雀」(『殉教』新潮文庫)に就いて書く。

 作中で描かれる、美しいものを破壊しようとする奇態で危険な衝動は、即座に我々の記憶の裡に傑作「金閣寺」の面影を甦らせるだろう。

 俗人の感情としては、美しいものは寧ろ厳密に保存され、永保ちするように手入れされるべき対象であると看做すのが一般的な傾向であると思われる。美しい自然、美しい芸術、美しい夢想は、何らかの手段を用いて破滅の危機を免かれるように処置しなければならない。けれども三島の作り出す審美的な主人公たちは、そのような一般的習俗に満足しない。彼らの奇怪な衝迫は、永保ながもちする美しさへの堪え難い不快に貫かれ、支配されているように見える。

 柏木を深く知るにつれてわかったことだが、彼は永保ちする美がきらいなのであった。たちまち消える音楽とか、数日のうちに枯れる活け花とか、彼の好みはそういうものに限られ、建築や文学を憎んでいた。彼が金閣へやって来たのも、月の照る金閣だけをもとめて来たのに相違なかった。それにしても音楽の美とは何とふしぎなものだ! 吹奏者が成就するその短かい美は、一定の時間を純粋な持続に変え、確実に繰り返されず、蜉蝣かげろうのような短命の生物をさながら、生命そのものの完全な抽象であり、創造である。音楽ほど生命に似たものはなく、同じ美でありながら、金閣ほど生命から遠く、生を侮蔑して見える美もなかった。そして柏木が「御所車」を奏でおわった瞬間に、音楽、この架空の生命は死に、彼の醜い肉体と暗鬱な認識とは、少しも傷つけられず変改されずに、又そこに残っていたのである。(『金閣寺新潮文庫 p.177)

 永保ちする美への敵意、それは三島の内面を支配する普遍的な哲理の一つである。尤も、彼が厳密な意味で真に嫌っていたのは、果てしなく循環する「時間」の構造であって、それが瞬間的に断ち切られ、冷凍されるならば、寧ろその対象は、三島の審美的な規範へ見事に合致するものとなるだろう。彼は無意味に反復される空虚な「時間」の永続性に猛烈な嫌悪を懐いていた。何の意味も価値も伴わずに、機械的な反復を積み重ねて、非人間的な冷徹さを維持し続ける「時間」の厖大な虚無に、彼の魂は抑え難い恐懼を覚えていたのである。それは紛れもない「生」への侮蔑であり嘲笑である。言い換えれば、金閣の備える堂々たる歴史的永続性は、生死の厳密な境界線を「無意味」の闇の懐へ溶解させる働きを宿しているのだ。無限に持続する厖大な宇宙的時間の立場から俯瞰すれば、個々の人間の生死など瑣末な「誤差」の範疇に属する事柄に過ぎない。そのように傲岸な美への抵抗が「金閣寺」という緊密な傑作の主要な旋律を成していることは明白である。

 三島にとっての喫緊の課題は平俗で単調な「時間」を、二度と繰り返されることのない「純粋な持続」に作り変えることであった。その野望を叶えるには特権的な光輝を帯びた何らかの「行為」が必要である。尚且つ、その絶対的な「行為」は「仏教的な時間」の原理を廃絶するものでなければならない。それは時間の流れを停滞させ、一瞬の光の裡に凝結させるものでなければならない。言い換えれば、それは永久に語り継がれる輝かしい「記憶」のようなものだ。二度と反復されないがゆえに、その特別な「事件」は幾度も参照され、無数の観衆によって伝承され、人々の記憶の一隅に残存し続ける。三島は厖大な「時間」を圧縮し、それを唯一の「瞬間」の内部に閉じ込め、剝製のように永遠の「記憶」として精錬することを夢見た。そのような錬金術への情熱が、彼の豊饒な文業を生み出す最大の源泉として働いたのである。

 「生きる」という労役を極限まで蒸留し、その崇高な結晶としての「行為」を演じること、それが三島的な欲望の端的な要約である。濃密な「生」の歓喜に達する為ならば「死」も辞さないという貪婪な性質が、彼の本懐である。寧ろ「生」の実感を限界まで高揚させる為には、不可避的に「死」或いは「破滅」の剣呑な毒素が要求されることになる。他方、卑俗な意味での「幸福」、つまり「日常」に附随する安逸な「幸福」の感覚は、こうした毒素を可能な限り稀釈することで得られる一種の「麻酔」なのである。そこでは起源も終焉も欠いた無際限な「時間」の反復が、呪術的な逸楽を人々の魂に流し込む。彼らは生きることと死ぬこととの間に設けられた「仕切り」の無効化に同意する。幸福な人々は何よりも長寿を愛し、不死に固執する。彼らにとっては「生きている」という物理的な事実だけが、あらゆる価値の源泉なのだ。「死」の力を借りて「生」を高揚させ、奔騰させるという野蛮な軽業を、彼らの骨絡みの保守性は決して受容しないだろう。

 生存し、飼われることにもまして、殺されることが豪奢だということ、そういう孔雀の本質を開顕した事件が、もともと孔雀好きな富岡を、永い酩酊に沈ませたとしてもふしぎではない。それはどういう存在形態だろう、と富岡は、退屈な倉庫会社づとめの昼休みにも、多くの船をうかべた港の沖の、孔雀の首の羽根のような緑と紺のきらめく一線を望みながら、考えたものだ。

『それは一体どういう存在形態だろう。生きることにもまして、殺されることが豪奢であり、そのように生と死に一貫した論理を持つふしぎな生物とは? 昼の光輝と、夜の光輝とが同一であるような鳥とは?』

 富岡はさまざまに考えたが、そうして得た結論は、孔雀は殺されることによってしか完成されぬということだった。その豪奢はその殺戮の一点にむかって、弓のように引きしぼられて、孔雀の生涯を支えている。そこで孔雀殺しは、人間の企てるあらゆる犯罪のうち、もっとも自然の意図を扶けるものになるだろう。それは引き裂くことではなくて、むしろ美と滅びとを肉感的に結び合わせることになるだろう。そう思うとき、富岡はすでに、自分が夢の中で犯したかもしれぬ犯罪を是認していた。(「孔雀」『殉教』新潮文庫 pp.377-378)

 永保ちする美しさではなく、殺戮されることによって完成される特異な美しさの象徴として「孔雀」は措定されている。換言すれば、孔雀の美しさは滅ぼされることによって至高の高みに到達すると看做されているのである。だが「殺されるときに、孔雀はその源泉の宝石と一致するだろう。瀬川は河床と結ばれるだろう」(p.381)という一節は果たして、永保ちする美への敵意として説明し得る内容を含んでいるだろうか。仮に「源泉の宝石」が「孔雀」の「イデア」(idea)を暗示するならば、個物としての孔雀の殺戮は、感性的な「現象」を棄却することによって普遍的な「本質」へ至るプラトニズムの規範に即した行為であると定義することが出来る。そうであるならば、三島の欲望は「金閣寺」において柏木に仮託された性質の欲望とは異なるものと捉えられるべきであろう。柏木が信奉するのは「美の無価値」という命題であり、その幻想的な外貌の土台に当たる索漠たる実相を暴き出そうと試みる下世話な悪意が、彼の本懐であった。

 聊か論理的な飛躍のように聞こえるかも知れないが、三島が望んでいたものは要するに超越的な理念との「照応」であったと考えるべきではないだろうか。彼の重んじる「行為」の特権性は、それが超越的な理念との間に完璧な「照応」を示すことによって担保される。言い換えれば三島の欲望は、己の現実の人生に「宿命」の呼び声に導かれて辿られた軌跡を象嵌したいと強く念じているのである。それは雑駁で断片的な人生の無意味な風景を、或る崇高な意味に向かって抽象化することと同義である。そして「行為」という観念は、日々の退屈な秩序に埋もれる個別の恣意的な行動を指すものではなく、そのような抽象的価値の集約された象徴的性質を孕んでいなければならない。日常の規矩を破砕し、無限に繰り返される単調な生活の律動を切断するものとして「行為」は存在する。孔雀の絢爛たる殺戮は、そのような「切断」の端的な表明であると言えるだろう。

 「滅亡」或いは「破滅」という観念に三島が寄せる過大な執着は、彼の文学と生涯の全般を色濃く染め上げている。一般に「破滅」という惨劇が齎すのは、無限に持続すると信じられてきた日常的な生活の突発的な瓦解である。そうした惨劇が「恩寵」と看做される為には、プラトニズム的な思索と感受性の構図が欠かせない。何故なら、プラトンの「パイドン」において精細に示されたような精神的構造にとっては、破滅や死は不完全な現象界からの脱却と救済を意味するからである。それは感性的な次元に囚われた不完全で偶有的な「美」を、本質的な「美」そのものへ昇華させる。孔雀が孔雀の象徴する絢爛たる美しさの本質に目醒める為には、孔雀の個別的な肉体は滅び去る必要があるのだ。

殉教 (新潮文庫)

殉教 (新潮文庫)