サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

Cahier(他者の精神を「読む」こと)

*小説を読みこなすこと、他人の拵えた精妙な綴織つづれおりのような文章を丁寧に読んで、その構造や絡繰からくりを見究めること、その難しさを日々手酷く痛感している。三島由紀夫の厖大な文業を渉猟する旅路に出掛けて早くも二年近い日月が経つが、理解は深まりつつも遠ざかる曖昧な動作を繰り返していて、真理の把握など到底覚束ない。

 小説を読みながら、これはこういうことだろうかと思いつく。この文章は要するに、こういう思想や価値観を表明しているのではないかと考えて、それを感想文の型枠の裡に流し込む。しかし、理窟を通そうと試みると、硬い木の節に鋸刃がぶつかるように、矛盾した記述へ逢着して頭の中身が混乱に襲われる。その繰り返しにうんざりして、書物を投げ出したくなることも一再ではない。新しい発見を掴んだような錯覚に陥ることもある。そうすると、過去に書いた感想文の記述を軒並み火にべなければならない。過去は過去として、記録として保管しておけばいいと思い直し、無闇な修正は控えるのだが、そういうことが積み重なると、初読の感想の不確かな品質が一際痛烈に思い知らされて、暗然たる気分に陥る。こういう渋滞した作業を積み重ねる以外に、他人の思想や信条を理解する方途は存在しない。そう考えると、何だか気疲れと同時に、自暴自棄の蛮勇さえ湧いて来るのだから、人間の心理というのはつくづく奇態な代物だ。

*「カクヨム」における小説の執筆は遅々として進まない。余り熱烈な意欲が湧かないのは、ひとえに想像力の不足が原因だろう。本物の才能に恵まれていたら、こんなに渋滞することはないのではないかと思われる。勿論、本物の才能などという出所不明の怪しげな観念に拘泥していても虚しいだけなのは心得ている積りだ。黙って只管に書き続ければいい。余計な考え事に逸脱して手許の動きを疎かにするのは、創作に限らず、あらゆる分野で見受けられる典型的な悪癖の一つである。

*小説を読むことは、多かれ少なかれ他人の思想や価値観に触れることであり、魚の小骨を除くように、複雑に張り巡らされた言葉の精妙な綾を解剖することは、他人の魂の深みへ潜航することに似ている。そうやって地道な発掘の作業を繰り返す裡に時折、意外な発見に出逢って胸を躍らせるのは得難い愉悦である。それは実生活においても同様で、他人の意見や心理に如何なる関心も持てなくなったら、そういう稀有の歓びが恩寵のように下賜される可能性は完璧に消滅してしまう。相手が虚構であろうと現実であろうと、私にとって他人の精神を「読む」ことは紛れもない生き甲斐の一つなのだろう。聊か傲慢な言い方をすれば、それは他者の心に「理解」を贈与すること、他者の精神を祝福することと同義である。