*小説を読みこなすこと、他人の拵えた精妙な
小説を読みながら、これはこういうことだろうかと思いつく。この文章は要するに、こういう思想や価値観を表明しているのではないかと考えて、それを感想文の型枠の裡に流し込む。しかし、理窟を通そうと試みると、硬い木の節に鋸刃がぶつかるように、矛盾した記述へ逢着して頭の中身が混乱に襲われる。その繰り返しにうんざりして、書物を投げ出したくなることも一再ではない。新しい発見を掴んだような錯覚に陥ることもある。そうすると、過去に書いた感想文の記述を軒並み火に
*「カクヨム」における小説の執筆は遅々として進まない。余り熱烈な意欲が湧かないのは、
*小説を読むことは、多かれ少なかれ他人の思想や価値観に触れることであり、魚の小骨を除くように、複雑に張り巡らされた言葉の精妙な綾を解剖することは、他人の魂の深みへ潜航することに似ている。そうやって地道な発掘の作業を繰り返す裡に時折、意外な発見に出逢って胸を躍らせるのは得難い愉悦である。それは実生活においても同様で、他人の意見や心理に如何なる関心も持てなくなったら、そういう稀有の歓びが恩寵のように下賜される可能性は完璧に消滅してしまう。相手が虚構であろうと現実であろうと、私にとって他人の精神を「読む」ことは紛れもない生き甲斐の一つなのだろう。聊か傲慢な言い方をすれば、それは他者の心に「理解」を贈与すること、他者の精神を祝福することと同義である。