サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

Cahier(半端者の感慨)

*小説を書いたり、読書感想文を書いたり、日々曖昧に道筋の揺れ動く暮らしである。小説を書き出すと、直ぐに自分の才能の乏しさに思い当って匙を投げたくなるし、読書感想文ばかり綴っていても、無益な抽象的遊戯に溺れているようで、気が滅入る。気に入らないなら全部止してしまえば良さそうなものだが、それでも文章を書く習慣そのものを放擲する心境には至らない。

 書くことが救いに繋がるのか、という問いに、正面切って断定的な答えを返す自信はない。何も現実が変わる訳ではない、と言えば確かにそうだが、才能に恵まれた人間にとっては、書くことは紛れもない現実変革の特別な手段だろう。要するに才能が足りないのだと心から思い切れるならばいいが、何処かで自惚れもあるし、そもそも努力の絶対値が不足しているのではないかという殊勝な不安もある。半端者の自分がもどかしい。もどかしいが、半端者ならば、素直にその半端者の境遇から一歩ずつ踏み出して、往ける限り往くしか方法はない。

三島由紀夫の作品を読む計画が済んだら、何か一篇、切れ切れのブログ記事とは異なる評論紛いの文章を草して、群像の新人賞にでも送ってみようかという考えが近頃、藪蚊のように意識の裡を飛び交っている。まともな文章が書けるか心許ない。だが、折角の取り組みの成果を、何らかの形で纏めておくのも一興だ。数多の論客によって言及されてきた偉大な作家の文業に就いて、何かしら目新しい言葉が吐けるだろうか。その為には、他人の書いた批評にも眼を通しておく必要があるだろう。

 三島由紀夫という作家は非常に巨大な人物で、その文学的主題は若年の頃から一貫しているように見えるけれども、現に書き遺されたものの内容は振幅が大きく、その全貌を完璧に見通すことは至難の業である。だから、三島由紀夫に関して何か評論を書くにしても、作家の総括のようなことは、私には荷が重い。例えば「金閣寺」一篇に絞って何事かを論ずるにしても、全くの素手でいきなり掴みかかるだけでは、恐らく取りこぼすものが余りに多いだろう。

 曲がりなりにも批評というものを書いて、それを巷間に提出して価値の鑑定を仰ごうと考えるならば、他人の意見や感想も徴した上で行わなければ、体裁が整わないのではないか。私と作者との純然たる一騎打ちの結果だけを書くのは、単なる読書家の私的なノートに類することで、それならば過去に散々、そうした類の文章をこのブログに投じている。若しも本当に批評を志すならば、他者の意見を渉猟した上で、自説を述べるのが公平な流儀だろう。他人の意見を歯牙にも掛けないのは勇ましいが、その蛮勇が独善的な無智の所産に過ぎないのならば、気負った論説も総て駄犬の遠吠えとして嘲られるに相違ない。良くも悪くも、批評は思考の交易でなければならない。無論、思考の蓄積は私的なノートの累積によって養われるべきだが、それを公共の回路に向かって開こうと考えるならば、世間を広く見渡して自説の位置付けを確かめる必要があるだろう。そうした準備を、今後は進めていきたいと思う。何れ報われない作業であるにしても、思い立ったことならば何でも臆せず試みるべきである。