Cahier(批評家の欲望)
*また益体もないことを徒然に考えている。批評という営為が、何を欲望しているのか、という普遍性を欠いた設問が、脳裡を掠めたのである。
例えば性愛に就いて考えてみる。我々は愛する者から愛されたいという至極当然の感情と期待を有する。逆に言えば、愛されたいと思わない相手のことを、我々は決して愛さないのである。そして我々は愛する者が我々自身に対して差し向ける欲望を愛する。言い換えれば、我々は相手の内部に我々自身に対する欲望を励起することを画策するのだ。それが性愛における「誘惑」の基礎的な原理である。自己に対する官能的な凝視を相手の内部に期待すること、これが性愛における欲望の一般的な形態なのだ。
我々は自分が欲するものを相手の内部に認めるとき、羨望や憧憬の感情を懐く。羨望や憧憬は、相手に対する想像的な同一化への欲望を我々の内面に喚起する。相手と一体化したいという欲望は、明らかに性愛的な感情である。或いはまた、我々は自分と同じ性質の欲望を持っている人間に親密な印象を覚える。これは友情と呼ぶべきだろう。友情は、或る共通の欲望の対象を媒介として結び付けられる連帯の感覚である。しかし性愛は、同一の欲望の対象によって結び付けられているのではない。性愛においては、共通の欲望の対象を媒介とするのではなく、相互に相手の存在を欲望の対象とすることによって、緊密な紐帯が形成される。友情は「共通の対象を欲望する」ことによって、愛情は「相互の存在を欲望する」ことによって成立する関係性の形式である。
欲望は様々な構造と形式を伴って、我々の暮らす世界の隅々に蔓延している。例えばこうやって、誰に頼まれる訳でも実利的な効用が期待し得る訳でもないのに、地道に個人的な文章を営々と書き続けて電子的世界に瓶詰の手紙の如く抛り出すのも、欲望の形態の一つである。何故、私はこんな無益な文章を生真面目に書き続けるのだろうか? 定期的に購読してくれる方はいるにしても、それだけが書き続けることへの欲望の源泉であるとは言い難い。恐らく誰も読んでくれないとしても、私は何かしら文章を書き殴る欲望を維持し続けるだろうと思われるからである。
恐らく私の内部には何かしら「究明」に対する欲望が潜んでいる。素性の知れないもの、得体の知れないもの、構造の解明されないものに就いて、その正体を究明したいという欲望が絶えず湧出するのである。しかし、私が究明したいと考えている事柄の領域は極めて狭隘である。何故なら、私には所謂「学術的関心」が稀薄であるからだ。言い換えれば、私の関心は「客観的事実の確定」という実証主義的な欲望とは余り親しくないのである。
モンテーニュは「自分自身」を題材にして書くことを選んだ。その決断から「エッセイ」という散文の様式が生み出された。恐らく私の内面に蟠踞している潜在的欲望もまた、モンテーニュ的な「随想」の精神に親密な要素を嗅ぎ取っているのではないだろうか(尤も、私は「エセー」の岩波文庫版を数頁しか捲ったことがない)。つまり、私の知性における主要な関心は「自分は一体、何を考えているのか」という命題に向かって捧げられているのではないかと感じるのである。私は「私」の正体を知らない。無論、自分がどういう人間なのか、そういう事柄に関心を持たずとも人は生きられる。浅薄な自己定義に凭れて自己の限界を直ぐに画定させるような生き方よりも、己の可塑性を素朴に信頼して、その時々に大切な事柄や重要な使命に向かって駆け出し奮迅する方が余程、生産的な実存である。
無論、どれだけ個性的で単独的な存在であったとしても、この「自己」という存在は数多存在する人間の一種であることに変わりはないし、人間という類的な範疇における共通性によって存在の過半を規定されているであろうことは概ね確実な話である。だから、他者の考えに就いて分析を試みることもまた、自己の考えを分析する営為の一環として措定し得る。或いは、このように言い換えられるだろうか。私は「私」自身も含めて、人間がどんなことを考え、どのように考えているのかを知ることに関心を持っているのだと。私は他人の頭の中身を想像することが好きである。他人がどういう価値観に基づいて行動し、様々な事柄に就いて如何なる思索や信条を稼働させているのか、それを分析的に妄想することが趣味である。三島由紀夫の小説を読んで「この作家は如何なる人間だったのか。何故、こういう小説を書いたのだろうか」という考えに浸るのも好みである。つまり、これが「批評家の欲望」ではないだろうか(無論、私は職業的な意味での批評家ではない。単なる市井の凡人であり、有り触れた坊主頭の被用者に過ぎない)。
私は元々、小さい頃から小説家に憧れ、自ら作家になることを夢見てきた。自分の書いた小説を世の中の人々が先を争って読みたがってくれたら、どんなに良いだろうと思ってきた。けれども、知らぬ間に私は小説を書くことへの欲望を衰微させてきた。自分に特別な才能が欠けていることは随分昔から理解していた。能力がないだけなら、夢を諦める充分な理由にはならないだろう。問題は、小説を書くことへの情熱自体が色褪せてしまったことだ。しかし、小説を書くことへの情熱が褪色しても、何かしら文章を書き綴ることへの欲望と衝迫は途絶しなかった。小説を通じて世人の欲望を励起することに関する私の情熱は、それが途上において劇しく色褪せてしまった事実を徴する限り、凡庸な水準の代物に過ぎなかったと言えるだろう。昔の私は、それを自らの生きる理由であるかのように信じていたというのに。若しも私が本当に小説を書くことを愛していたならば、誰にも評価されずとも、終生の手遊びに過ぎなかったとしても、きっと熱心に書き続けただろう。
間歇泉のように、時折思い出したように二十代前半から書き出した小説の続きへ着手しても、直ぐに情熱と意欲が萎えて、尻切れ蜻蛉に終わってしまう。その繰り返しが益々積極的な意思を衰弱させてしまう。代わりに私は夥しい量の読書感想文を書き、日々の備忘録のような、個人的な随想の類を書き溜めた。小説を書かずとも、文章を書くこと自体は私の変わらぬ欲望の対象であり続けているのだ。それは何故だろうか? そもそも、私にとって文章を書くことは何を意味しているのか?
書いている間、私は絶えず自分自身に向かって問い掛けている。お前は何を言いたいのか、お前は何を言おうとしているのか、という設問が常時、高速で「私」と「私」との間を往復しているのである。その過密な処理の過程で徐々に、自分自身が考えていたことの全貌が浮かび上がってくる。聊か気障な表現を用いれば、文章を書く作業を通じて、私は「私自身」と出逢っているのである。例えば三島由紀夫の小説を読み、何故、吃音の若い僧侶は金閣寺に放火したのかを、三島由紀夫の文章を通じて考察する。そのとき、私は私自身の内部に齎された様々な想念と向き合い、その構造を濾過しながら、少しずつ「纏まった考え」に向かって躙り寄っている。そうやって手繰り寄せられた考えの中身は、私自身の生活や思想と無関係なものではない。彼は要するにこういうことを訴えているのではないかという結論らしきものに到達したときの清冽な歓喜、静謐な充足は、自分自身の内側に醸成された曖昧な思念に、適切で明瞭な言語的輪郭を賦与することに成功した瞬間の喜悦と同類である。言い換えれば、私の中に根強く息衝いている欲望とは「理解することへの欲望」なのである。
この命題を愛情の公式に当て嵌めることは可能だろうか。つまり、誰かと愛し合うということは「相互的理解」への欲望なのだと結論することは適切だろうか。愛情は「相互の存在を欲望する」ことである。私が貴方を理解したいと願うとき、私は貴方を愛している。同時にその欲望は、貴方によって私の存在を理解されたいという潜在的な願いを伴っている。この双方向的な関係への期待が、愛情の固有的条件である。相手を理解することに関心を持ちながら、相手によって自分が理解されることを特に望まないとき、それは「愛情」の定義に適うだろうか?
「理解されたくない」という拒絶の感情は、必然的に愛情の拒絶である。「理解されたい」と願うことは愛情の基本的な要件である。果たして「理解されたくない」と考えるとき、人間の内面には如何なる性質の情念が生起しているのだろうか。恐らくそれは「誤解」に対する過剰な恐懼を含んでいるだろう。厳密に言えば「理解されたくない」という拒絶の姿勢は「誤解されたくない」という欲望の変奏された表現なのである。「誤解されるくらいならば、そもそも理解を期待しない」という潔癖な気性が、他者による理解の営為を遠ざけるのだ。だが、我々の理解は「誤解の反復」によって徐々にその精度を高められるものである。理解の第一歩が「誤解」であることは珍しくない。言い換えれば「完璧な理解」への極端な固執が「如何なる誤解も容認しない」という病的な潔癖を生み出すのである。だが、欲望の充足に伴う歓喜は常に「誤解から正解への変遷」の過程の裡に存する。つまり、誤解や無理解が存在しない場所には、正解へ到達する歓びもまた存在しないのである。「誤解」の全面的な排除を試みる完璧主義者の庭園には、必然的に「正解」という果実を結ぶ為の花が咲かない。
批評家の欲望は、恐らく「難解なものに魅惑される」という衝迫を備えている。難解なものに惹き付けられないということは、理解したいという欲望が薄弱であることを明確に含意している。「理解し難いものへの拒絶」は、愛する力の脆弱性を立証しているのだ。それは同時に「誤解への恐懼」と密接に関連している。正しく理解し得ないものは敬遠しようという態度は、事勿れ主義である。そして、理解への努力を怠る人間が、他者からの熱心な理解の恩恵に浴する見込みは乏しい。何故なら、愛情は一般に相互的な構造を宿しているものであるからだ。互酬的な現象であると言い換えてもいい。此方が差し出さない限り、相手も何かを差し出そうとは考えない。そもそも成熟した人間は、不均衡な互酬性を忌避する習性を備えている。理解に関する吝嗇な振舞いは、つまり相手から貰える限りのものを一方的且つ排他的に享受しようと画策する態度は、愛情に関する倫理的規範を根本的に毀損している。
理解とは「贈与」である。相手を理解することは、相手に贈り物を捧げることと同義である。言い換えれば、理解とは相手の存在を抱擁し、その実在を祝福することである。私にとって文章を書くことは、そうした「愛情」の表現なのかも知れない。自分自身に対しても、具体的な他者に対しても、その理解の為に文章を通じて思索を積み重ねることは、紛れもない「祝福」の作法ではないか。測り難いものを測ろうとする情熱、それが批評家の欲望の核心を成す。測り難いものを拒絶する姿勢は、愛情の拒絶であり、堪え難い孤立への捷径に他ならない。愛することは理解することだ。無論、それは固定された見解によって相手の存在を拘束することではない。理解は常に書き換えられ、改訂されていく。改訂の勇気を失ったとき、批評家の欲望は廃滅するだろう。
だが、何故我々は、何らかの対象を理解したいと望むのだろうか。単に難解であるだけでは、理解への意欲を促進することは出来ない。理解に先立って、我々は何らかの暗示を受け取っている筈だ。理解し難い暗がりの中に、何かしら大切なもの、必要なものが隠匿されていると考えない限り、我々の批評的欲望が煽動されることはない。我々の批評的欲望を駆り立てる秘められた誘惑の源泉、それは一体何なのか?
我々の知らない何かを相手が知っていると感じられるとき、それは我々の理解に対する欲望を促進する。しかも、その知らない何かは、我々が潜在的に探し求めている事柄に関わっている筈である。つまり、単なる知識の多寡が、我々の欲望を駆り立てる訳ではないのだ。我々は相手の内部に何らかの誘惑の実在を期待する。我々が求めているものが、相手の内部に潜在するという直感的な期待によって、我々の批評的な欲望は劇しく励起される。その漠然たる期待、立証されざる期待は、どうやって我々の精神の裡に下賜されるのか? その直感は、運命的なものなのだろうか?