サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

危機・栄光・誘惑 三島由紀夫「サーカス」

 三島由紀夫の短篇小説「サーカス」(『真夏の死』新潮文庫)に就いて書く。

 所謂「見世物」に属する稼業は、観衆の欲望を刺激し、彼らの興奮に向かって想像的に同化することによって成立する。観衆が何を見たがっているのか、その欲望の内実を把握しなければ、見世物は魅力を発揮することが出来ない。言い換えれば、見世物という商売は観衆の欲望を侵略し、占有し、併合する責務を負っているのである。

 誰もが見たがるようなものを作り出したいという芸術家の欲望は当然のことながら、三島由紀夫の精神を支配する扇の要の役目を、長年に亘って担っていた。しかし、それは彼にとって究極的な充足を齎すものではなかった。三島は彼自身の存在を、夥しい観衆の欲望の焦点に据えたかったのである。彼が小説の執筆のみならず劇作に精を出し、時には自ら俳優の仕事に手を染めたのも、そして晩年の盛大で陰惨な自決も、他者の欲望に己の実存を曝したいという内なる野心の顕れではなかったか。彼は観衆の位置に留まるだけでは満たされない空洞を抱えていた。彼は他者に求められ、愛されることを切実に要求していた。無論、人間ならば誰しも他者の承認を希求し、愛情を享けることに憧れを覚えるのが通例である。

 だが、三島由紀夫という人物は、特定の親密な他者による承認だけでは満足し得ない性格の持ち主ではなかっただろうか。彼は自己の個性を通じた他者との欲望の交換には納得せず、もっと完璧で絶対的な欲望の対象に自己の存在を定位する内在的要請に強いられていた。言い換えれば、彼は普遍的な欲望の対象にまで自己の存在を高めることに熱烈な執着を有していたのである。短所が長所と複雑に、密接に絡まり合う渾沌とした個性の魅力に依拠することは、彼の美学に反する振舞いであった。偶有的な美しさではなく、本質的な美しさを求めることが、彼の審美的規範を構成する根幹的な要諦であった。言い換えれば、彼は自身の存在を「永遠的な偶像」として昇華することを望んだのである。例えば特攻隊の戦没者たちが、その悲劇的な宿命の威光によって永久に顕彰されるように。

 「サーカス」の団長は、一座の花形である「王子」を意図的に事故死に追い込む。それは単に彼の出奔の罪過に対する懲罰であろうか? いや、違うだろう。「王子」への懲罰に先駆けて、次のような記述が作中に刻まれていることを、我々読者は看過してはならない。

 二人の出奔を聞いたとき、団長の心は悲しみの矢に箆深のぶかく射られた。心ひそかに彼がねがった光景、——いつかあの綱渡りの綱が切れ、少女は床に顚落てんらくし、とらえそこねた少年は落馬してクレイタ号の蹄にかけられる有様——、団長の至大な愛がえがいていた幻影は叶えられなかった。団長は椅子にもたれて不幸や運命や愛について考えた。彼の唇は怒りにふるえて来た。(「サーカス」『真夏の死』新潮文庫 p.91)

 出奔に対する懲罰としての謀殺は、明らかに「王子」の再度の逃走を危惧して意図的に早められた「偶像化」の処置であるように感じられる。観衆の欲望を根こそぎ吸い寄せる若者、夥しい欲望の視線の焦点として構成される若者の超越的な「魅惑」は、悲劇的な死によって極限まで高められると共に、時間の齎す怠惰な腐敗の危険を免除される。最も美しい状態で死ぬことは、その残像を不朽の傑作に仕上げることに等しい。彼は絶えず観衆の欲望を喚起する特権的表象として、時間的制約を超越し、普遍的な偶像と化す。言い換えれば、彼の存在は純然たる欲望の対象として抽象化され、官能的な魅惑の象徴として歴史にその名を刻まれるのである。

 芸術家の欲望は、観衆の欲望を励起することに懸けられている。作品を通じて、観衆の潜在的な欲望に火を燈し、その野蛮で貪婪な欲情の標的と化すこと、つまり観衆を巧みに誘惑すること、これこそ芸術家における野心の内実である。悍馬を乗りこなす「王子」と綱渡りの少女によって演じられる一場の奇蹟は、団長によって設計され構築された魅惑的な「作品」である。そして「作品」の鮮麗な残像は、二人の悲劇的な夭折によって堅固な輪郭を与えられ、絶対的な記憶に昇華される。それは芸術の完成された形態であろう。

 その一瞬の、後足で立った奔馬の姿勢に、人々は運命のまわりに必ずあるあの装飾的な華麗な静けさを見出だした。それはどんな酸鼻な事件をも見戍みまもっている鏡の周辺に、巧みな工人の手で飾られた古いヴェニス浮彫レリーフのような静けさだ。

 王子は砂の上に横たわっていた。頸骨けいこつを折って。(「サーカス」『真夏の死』新潮文庫 p.94)

 「王子」のように我が身を不朽の作品として永遠的な記憶の系譜に列ねることは、三島にとっては芸術的な宿願であった。それは死後もずっと観衆の欲望を励起し続ける純然たる「誘惑」の化身に憧れることと同義である。

真夏の死―自選短編集 (新潮文庫)

真夏の死―自選短編集 (新潮文庫)