サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

何故、誰かに「見られて」いなければならないのか? 三島由紀夫「春子」

 過日、再びプラトンの『国家』(岩波文庫)の繙読に復帰すると宣言しておきながら、枯葉のように頼りない心は速やかに舳先の方角を改め、結局は三島由紀夫の短篇小説「春子」(『真夏の死』新潮文庫)に指先で触れてしまった。別に余人にとってはどうでもいい転回に過ぎないことは弁えている。

 「春子」の主題は「レズビアン」(lesbian)或いは「サフィズム」(sapphism)であると目されている。けれども、繙読した感想としては、女性の同性愛自体に、三島が重要な力点を置いている印象は享けなかった。この作品は確かに性愛の力学的構造に関する精緻な解剖に基づいて紡がれている。但し、それは我々の社会を構成する公共的原理としての「異性愛」に抵触する世界を提示しようという聊か露悪的な野心とは無関係であるように思われる。

 所謂「三角関係」という言葉がある。一般に我々の世界においては、性愛の関係は「二者」の間で排他的な仕方で営まれるのが道義的に正しい形態であると信じられている。そこに第三者が介入することによって、我々は或る倫理的な苦闘や、様々な穢れた情熱の虜囚と化す。

 問題は、この作品における「私」の路子に対する欲望が、絶えず春子の視線によって喚起されているという点に存する。言い換えれば、「私」が路子に対して懐く性的欲望の根拠は、路子の存在そのものには附随していないのである。けれども、それは「私」の欲望が、本当は春子に対して結び付いているという潜在的事実を示すものではない。彼らの関係においては、性愛の欲望は「二者」の間で双方向的に完結する排他的な充足の境涯に到達することが出来ない。路子が「私」との性愛的関係を受け容れるのは、それが春子の意向に即していると判断した結果であり、「私」が路子に欲望を覚えるのは、春子に「見られている」という認識を持ったときに限られている。ここでは「私は貴方を求める」という単純な欲望の表明が、当事者の関係性の内部に根拠を持たないという奇態な構造が稼働しているのである。

「二階へ来ない」というと、何度か本を借りに登った私の部屋へ路子は黙ってついて来た。春子が今にも来はしまいかという惧れでそわそわしている間は、路子の体に不安定な漲るような危機のなまめかしさが見られるのだが、話らしい話もせずに小一時間たってしまうと、今度は路子がそわそわしだすのに引代えて、私には路子の着ている見慣れたスーツが味気なく見えてくるばかりだった。春子に見られる気遣いがなくなると、きまって私の路子への欲望が衰えてくるのである。(「春子」『真夏の死』新潮文庫  p.70)

 「春子に見られるかも知れない」という一種の複雑な不安が、路子に対する「私」の官能的欲望を喚起し亢進させるのは、恐らくそれが春子の路子に対する欲望の憑依として機能するからではないだろうか。春子の欲望が憑依することで「私」の欲望は掻き立てられる。言い換えれば、「私」が本当に望んでいるのは路子そのものではなく、路子に対する春子の欲望と同化することなのではないか。私は浅学菲才ゆえに、ラカンコジェーヴジラールも読んだことがないので、一知半解の引用に赴かねばならない厚顔を恥じながら述べるのだが、これは正に「他者の欲望に対する欲望」であると言えるだろう。頗る大雑把な要約を試みるならば、人間は他人が欲しがるものに欲情するという社会的性質を備えているのである。飢渇や寒暖に関する当然の生理的欲求と区別されるべき人間的「欲望」の固有性は、こうした三角関係的特性に存していると看做せるだろう。

 一般に愛情は、相手の歓びを自分の歓びとして感受する心理的構造に依拠して形成される。つまり、愛することは他者の欲望に同化することによって齎される充足を志向しているのである。そして誰かを愛するという心理的営為の裡には常に「愛する者に愛されたい」という願いが含まれている。反対に愛情の拒絶は、他者の欲望そのものの拒絶であるというより、他者の欲望へ自身が同化することに対する拒絶であると定義せねばならない。

 姿見の前に一対の花瓶があった。それはいつぞや銀座で買ったトキ色の対の花瓶なのだが、鮮やかな緋のいろで春子の名が書き散らされているのは、つれづれに路子が口紅で書いたものにちがいなかった。しかし路子はそれについては何も言わず、ふと思いついたように、「べにつけてあげる」

「僕にかい?」

「あら、あなたの他に誰もいないじゃないの」——そうだ。私のほかに誰もいない。しかし果して誰もいないだろうか。(「春子」『真夏の死』新潮文庫  pp.82-83)

 勿論、この密室における官能的欲望の関係性は、不在であるべき春子の超越的な臨在を想定することで保たれているのである。「私」が路子に対して懐く渇望は、単なる官能的欲望ではない。つまり、性的な渇望の即物的解消を求めるものではない。「私」の欲望は、春子の「欲望」に対する想像的同化として構成されている。

 だが、そもそも何故「私」は、そのような想像的同化に踏み込むのか。迂遠な手続きを経由せずとも、彼の春子に対する官能的欲望は充足され得るのである。この経緯を適切に理解する為には恐らく、春子本人と空想的な「春子」との認識論的な差異に着目する必要がある。

 三度目の逢瀬はもうだめだった。「これではない、この体ではない」と私は娘の寝床に入るつもりをまちがえて母親の寝床へ入ったあのデカメロンの青年のように戸惑いした。いつも後に来るべき動物的な悲しみが先に来た。きっと私は慈善家のように蒼ざめた悲しげな顔をしていたにちがいない。(「春子」『真夏の死』新潮文庫  p.53)

 この「失望」は恐らく「私」が諸々の伝聞に基づいて長年に亘って育んできた夢想的な憧憬の対象としての「春子」と、現実に存在する生身の女性としての春子との落差に依拠して形成されている。

 ひとたび彼女について囁いた大ぜいの口、彼女にむかって傾けられた無数の耳、彼女の写真をむさぼり見た多くの目は、春子の生涯に何らかの暗示を投げかけずにはおかない。彼女はもはやかれらの望んだように生きるか、かれらの失望するように生きるかの他はない。彼女自身の生き方はなくなってしまった。(「春子」『真夏の死』新潮文庫  p.32)

 「私」が長きに亘って夢見ていた「春子」は、いわば「新聞種になった女」としての「春子」であり、それ自体が無数の他者による欲望の対象であった。それは平穏な日常に埋もれる匿名の存在ではなく、夥しい他者の下世話な好奇心の餌食に選ばれた「欲望の対象」である。「春子」の世界は常に折り重なる「他者の欲望」の螺旋的な回廊のように構築されている。そこでは「純粋な欲求」など有り得ない。我々は常に「借り物の欲望」に駆り立てられながら、俗塵に塗れて地上を這い回っているのである。或いは「憂国」における心中のエロティシズムもまた、こうした「他者の欲望」との間に緊密な関連を有しているのかも知れない。つまり、三島的な「夭折」への欲望自体が、自己の存在を「他者の欲望」の対象に据えたいという切迫した希求の所産なのかも知れないのである。

真夏の死―自選短編集 (新潮文庫)

真夏の死―自選短編集 (新潮文庫)