サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

プラトン「国家」に関する覚書 7

 再び、プラトンの対話篇『国家』(岩波文庫)に就いて書く。

 「理想」という概念は、プラトンの思索において極めて重要な意義と役割を帯びている。現実に存在する事物への全面的な充足だけで万事済むのならば、プラトンのように彼是と抽象的な思弁を弄する必要は皆無となるだろう。言い換えれば、単に動物的な幸福、眼前の瞬間的な現実に対する半ば自動的な適応の機構として人が生きられるのならば、空想的な思弁など無用である。「超越」という奇態な観念に日夜振り回される必要もない。

 恐らく揺るぎない幸福とは、如何なる欲望にも支配されず、眼前に存在する事物だけで満足する精神を涵養することで初めて獲得される。何かを欲する限り、少なくとも直ぐに手に入らない事物を希求する限り、人間の精神は堅固な安寧の裡に憩うことが出来ない。だから多くの宗教的信仰や道徳的修養は、欲望の廃絶或いは抑制を奨励し、称讃する。規則や戒律を愚直に遵守することが尊く美しい振舞いであると訓示する。戒律への反発は、欲望を持たない人間にとっては無縁の粗暴な感情である。与えられたもので満足すること、確かにそれは極限的な窮境に追い詰められた人間の精神を支援する強力で即効性の高い武器となり得るだろう。

 だが、こうした幸福は、その本性において、飼い慣らされた従順な家畜の習性に過ぎないのではないだろうか。「常に眼前の現実によって満たされる」という倫理的美徳は、四囲の現実への全面的な従属を含意している。彼らは所与の規範に従順であり、欲望に駆り立てられて野蛮な悪徳に陥ることもなく、絶えず他人への忠誠と配慮を伴って、果たして生きているのか死んでいるのか、その境界線さえ曖昧な独自の心境に達している。彼らの幸福は、故障を知らぬ精密な機械の幸福だ。彼らは逸脱も叛逆も知らず、希望も絶望も味わうことがない。それは確かに幸福の究極的な形態であり、ヘレニズムの哲学における所謂「アタラクシア」(Ataraxia)の境地であると看做して差し支えないだろう。だが、このような境涯を「幸福」と呼ぶのならば、私は必ずしも「幸福」への純粋な信仰に基づいて日々を歩み続ける自信を持つことが出来ない。

 過剰な情熱、劇しい欲望、不可能なものへの挑戦、限界の克服、これらの不穏な実存的経験から遠ざかることが「アタラクシア」の秘訣である。その根底には「煩悩の廃絶」という志向性が潜在していて、総ての道徳的規範を形成する礎の役目を担っている。言い換えれば、ヘレニックな倫理学においては「現実への抵抗」という野蛮な精神は排斥される傾向にあるのだ。別段、私は「アタラクシア」の論理に宿っている精神衛生上の効用を否定している訳ではない。重篤な依存症の患者にとって「欲望の節制」に関する合理的で実践的な教義は、重要な救済を齎すだろうと考えられるからである。

 プラトンにおける「理想」の内実も、究極的には現世の欲望に対する批判的視座を備えている点において、後世のエピクロスセネカと通底する倫理的志向を保持していると言える。プラトンは現実を超越する為に、感覚的認識を排して理性による認識に邁進することを重視した。肉体=感覚に対する深刻な敵意、これがプラトンの思索の中核を成す根源的な志向であり、衝迫である。理性的認識を愛することが「哲学」の本義であるならば、少なくともプラトンの用語法において「哲学者」は、あらゆる肉体的快楽、感覚的欲望の敵手でなければならない。だが、これは聊か偏狭に過ぎる思惟の様式ではなかろうか? 肉体=感覚における認識への軽視は、プラトニズムにおいては揺るぎない金科玉条である。だが、理性と感性とを二元論的な対立の構図の裡に配置し、感性から理性への移行を絶えず称揚し続ける志向性は、現実に対する抵抗であるというより、現実そのものの想像的消去ではないのか?

 恐らくプラトンに固有の「超越的思考」が備えている驚嘆すべき衝撃力は、眼前の現実を抹殺しかねないほどの強烈な抽象的想像力によって支えられ、醸成されている。長大な対話篇「国家」が、理想的な国家の形態に就いて、厖大な論理的想像力を駆使しながら克明な設計を試み続けているように、彼は常に「存在しない世界の形式」に関する豊饒な思索を身上としている。言い換えれば、プラトンの「空理空論」を形成する能力は、異様な傑出を示しているのである。それは絶えず「感覚的明証性」を思索の根底に置き続けたエピクロスの現実的感覚とは異質な執念を宿している。エピクロスは「感覚的に把握し得ないものに就いて考えることは無益である」という根本的な態度を保持しているが、プラトンは寧ろ「感覚的に把握し得ないものに就いて考えることこそ『哲学』の本懐である」という極端な方針を貫徹した人物なのである。恐らくエピクロスセネカにとって、この世界は常に「既知の体系」に還元される。けれどもプラトンの思索は絶えず「未知の存在」に向かって貪婪で偏執的な欲望を燃やし続けている。それは「認識の限界」を画定することに哲学的思考の真価を見出した師父ソクラテスの方法とも全く異なっている。プラトンは、理性の力を駆使することで未踏の認識的領域に辿り着けると信じていたのではあるまいか。彼の卓越した論証的能力は、感覚的現実の犀利な分析ではなく、かつて一度も地上に存在したことのない理想的現実の稠密な「構想」に向けて、極めて熱烈に捧げられたのである。

国家〈下〉 (岩波文庫 青 601-8)

国家〈下〉 (岩波文庫 青 601-8)