サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

プラトン「国家」に関する覚書 8

 再び、プラトンの対話篇『国家』(岩波文庫)に就いて書く。

 「国家」を読みながら、改めてつくづく思い知るのは、師父であるソクラテスの刑死が、プラトンの精神と思索に及ぼした影響の計り知れない大きさである。彼が「哲学者」の処遇に関して彼是と詳細な議論を弁じるのは、師父の刑死が巨大で衝撃的な「謎」であったからだろう。何故、あれほどの叡智に恵まれた人間が、あのような不当な刑死の悲運に見舞われることになってしまったのか、その問題を究明することは、師父の謦咳に接して自らもまた哲学的探究の困難な冒険に乗り出すことを志した若き日のプラトンにとっては、容易に看過し得ない重要な実存的課題であったに違いない。

 「太陽」や「洞窟」や「線分」の比喩を用いて、プラトンは「認識」の構造に関する詳細な省察を縦横無尽に物語る。ソクラテスの刑死の必然性を、哲学者の「愚昧」ではなく「叡智」において導き出す方程式の構築は、彼にとって死活的に重要な課題であると感じられた筈である。若しもそのような仕方で論証することに成功しなければ、彼と彼の師父が生涯を賭して挑み続けた哲学的探究の意義は、社会的害悪の汚名の下に蹂躙され、棄却されてしまうからである。

 プラトンの抽象的な本質主義を、浮世離れした空理空論として嘲笑する言説は、恐らく往古のギリシアにおいても頻々と語られていたのではないかと推察される。「イデア」など現実から遊離した絵空事であるという批難は、プラトンの議論に接した者であれば誰でも容易に思い浮かぶ言葉の礫であるだろう。少なくとも、感性的な現実の裡に埋没して何の痛痒も覚えない多くの衆生にとっては、プラトンの理論は難解で秘教的な「異端の妄想」に過ぎなかったに違いない。

 一体、彼の抽象的な思考力は、何を目指していたのだろうか? 彼は何故、感覚によっては捉え難い事物の「本質」(ousia)を想定し、それを理性的な仕方で究明することに莫大な情熱を注ぎ込んだのだろうか。彼は何故、感覚的現実の「彼岸」を必要としたのか。

 或いは、このように考えるべきだろうか。人間は誰しも、その生得的な本能に衝き動かされて、眼に映る事物、耳に響く音色の「彼岸」を想像せずにいられない種族なのだと。けれども、その「彼岸」に関する見立ては、如何なる絶対的証拠も伴わない為に、個人によって様々に異なり、その方向性も精度も全く一貫しない。そもそも「彼岸」の「実相」に対する関心の熱量も、人によって大きく異なっている。他人の掲げる宗教的言説や、幼い頃から耳の孔に流し込まれてきた共同体の古伝を鵜呑みにしたまま、「彼岸」の世界に関するイメージの整合性を再審に附そうと思い立つことさえない従順で短慮な人々の姿に、プラトンは肯定的な感情を懐けなかったのではないか。

 「彼岸」を如何にして捉えるか、その「実相」に向かって如何なる方法を駆使して到達するか、如何にして厳密で精確な「認識」を作り上げるか。これらの問題に就いて、万人が熱烈で誠実な関心を寄せるとは限らない。「彼岸」に就いて深く考えずとも、眼前に映し出される経験的な現実への刻々の対処に明け暮れるだけで、人間は充分に生き延びていくことが出来るからだ。

 だが、そのような態度で生き続ける限り、つまり「彼岸」に関する粗末な思考や停滞した信仰に縋って日々を暮らす限り、我々は経験的な現実を超越し得ない。或いは仮に結果として超越し得たとしても、その意味や価値を自覚的に捉え直すことが出来ない。「彼岸」に特別な関心を持たず、その実相を究明することに情熱を有さない人間は、四囲に展がる日常的な生活の枠組みの「外部」を想像する力を養うことが出来ないだろう。眼に見えないものを「存在しないもの」として取り扱う極端な経験論的発想は、例えば表層に顕れない他人の秘められた感情や思考を察知する能力を衰微させる。感覚に顕れることのない「深層」や「潜在的本質」への知性的な探究心、それはプラトニズムの核心を成す原動力である。

 感覚を通じて得られる断片的な認識の数々を、パズルのピースのように比較したり組み合わせたりしながら、感覚によっては把握し得ない抽象的で透明な「関係」を読み取ること、こうした探究が人間的知性の主要な機能であり画期的な力であることは明瞭な事実である。感覚的情報を対象化するという理性の機能は、感覚の絶対化によって惹起される諸々の弊害を解毒する効果を有している。複数の感覚的情報を相互に照合する作業を省略してしまえば、人間は直ちに感覚の奴隷と化し、それは異質な他者との意思疎通の可能性さえも深刻に毀損してしまうだろう。

 人間の心は眼に見えるものではない。無論、感覚的に捉え得る様々な事物が、人間の心の働きを断片的に暗示することは日常的な事実である。しかし、そのような諸々の感覚的表象から相手の心理を推し量る為には、感覚的表象を操作したり解剖したりする理性的機能の介在が不可欠である。感覚は感覚的表象を捉えるだけで、その表象の包摂する「意味」そのものを感受する訳ではない。

 認識における感覚的限界の超越、それこそがプラトンの野心的な情熱の標的である。同時に、それは彼の卓越した論証に神秘主義の色彩を纏わせる原因としても機能している。恐らくエピクロスが批判したのは、プラトンの抱懐する独断的な「神話」の専横な性質であると考えられる。「彼岸」の実相は、専ら理性によって把握される対象であり、それを感覚的に実体化することは出来ない。「彼岸」は肉体的感覚によっては決して把握されない。しかし、幾度も繰り返し強調される「理性的知識」と「感覚的臆見」との峻別の禁則は、例えば「パイドン」において死後の世界に関する「神話」が縷説されるように、必ずしも厳守されているとは言い難い。感覚的限界の超越を志向する人間は、一歩間違えると、感覚によって捉えられることのない「彼岸」の実相に就いて、恰かも「見てきたように」語る過ちを犯しかねない。感覚の彼岸を実体化することは、危険な神秘主義的陥穽である。

 感覚に対する過剰な蔑視もまた、プラトンの思想に附随する陥穽の一つであると言うべきだろう。だからこそ、エピクロスは「感覚を認識の根拠に置くこと」という原則の重要性を強調したのである。それは感覚的事実だけを重んじて、感覚を超越した問題に就いては考察を峻拒するという経験論的な自閉を称揚する為の言説ではない。彼は感覚によって確証されない事柄に就いては、飽く迄も単一の「真理」ではなく複数形の「仮説」を語るべきだと訴えたのである。けれども、プラトンは恐らく単一の「真理」に到達することを哲学的探究の本領であると看做していたのではなかろうか。彼は「たった一つの正しい答え」に対する異様な執心を棄却出来なかった。それゆえに「彼岸の実体化」という秘教的な陥穽が、副作用の如く形成されてしまうのである。

国家〈下〉 (岩波文庫 青 601-8)

国家〈下〉 (岩波文庫 青 601-8)