サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

プラトン「国家」に関する覚書 16

 プラトンの対話篇『国家』(岩波文庫)に就いて書く。

 「国家」第十巻の前半においてプラトンは、芸術に関する議論を提示する。この議論は当然のことながら、プラトンがこれまで執拗且つ精細に展開してきた「実在」と「現象」の二元論的構図に依拠して語られている。

 プラトンの芸術観において重要なキーワードとなるのが「ミメーシス」(mimesis)という概念である。この言葉には「模倣」や「同一化」という意味が含有されている。そもそもプラトンは、我々の生活する卑俗な現実に属する総ての可感的な対象を、超越的な「実相」(idea)の不完全な「模倣」として捉えている。そして彼の考えでは、芸術による事物と世界の再現は「模倣の模倣」であり、従ってそれは「真実在」(ousia)からの更なる隔絶を暗示しているのである。こうした構図において「哲学」と「芸術」との間には決定的な対立が見出される。プラトンの思惟の総体が挙って「生成」から「実在」への移行を企図しているのに対し、所謂「悲劇作家」や「画家」たちは悉く「生成の模倣」という「退行」の作業に執心しているのである。

 弁論術の技巧に明け暮れるソフィストへの批判にも共通する点だが、プラトンの議論は常に「存在すること」と「感覚されること」の二つを厳密に識別しながら進められる。この微妙な差異は、論理の重要な分岐点としての役割を担っているからだ。感覚が捉える事物の性質は、知性によって把握される事物の本質と同一ではない。生成変化する浮動的な要素は、その事物に固有の普遍的な本質ではなく、従って厳密な考察に値しない部分である。

 こうしたプラトンの方針は、自然科学的な探究とは決定的に異質であるように思われる。彼にとって最も肝腎なのは「ロゴス」(logos)の徹底的な純化であり、その自存的な明晰さの確保である。辛抱強く現象界の事物の精妙な変容を観察する実証主義的な態度は、プラトンの哲学の趣旨に反する。極端に言えば、彼は現象界の事物を纏めて黙殺したのである。事物がどのようにして感覚されるかという問いには、無数の答えが与えられる。千変万化する現象界の変異に拘泥している限り、普遍的な真理を樹立することは困難である。自然科学的な探究は、経験論的な実証を重んじて、絶えず普遍的な真理の確立を留保し続ける。新しい発見が、旧来の真理を転覆させる可能性は常に存在しており、それこそが自然科学的な探究に携わる人々の至福の歓喜を成す。言い換えれば、経験論的な実証性を重んじる限り、世界の真理は絶えず浮動し続けるのである。

 だが、プラトンにとっての「真理」は、決して上書きされることのない絶対的な事実でなければならない。新発見によって書き換えられる「理論」という概念自体が、彼の世界観においては「生成界」に属する不完全な模倣の産物に過ぎないのである。変動し、更新される認識は「真理」の称号に値しない。知性的な思惟を通じて把握された事物の普遍的な本性は、如何なる感覚的知見によっても反駁されず、震撼されない。言い換えればプラトン的な「真理」は定義上、自らの存立の根拠を感覚的認識の裡に求めることを禁じられているのである。

 しかし芸術家たちは、そのような事物の不感的な本質を活写することを主務としない。彼らは絶えず事物の現象的な側面に着目し、世界の断片を自在に再構築して、可感的な媒体として構築することに情熱を注ぐ。

 「それでは、ホメロスをはじめとしてすべての作家(詩人)たちは、人間の徳――またその他、彼らの作品の主題となるさまざまの事柄――に似せた影像を描写するだけの人々であって、真実そのものにはけっして触れていないのだということを、われわれはここで確認することにしようか? それはちょうど画家の場合と同様であって、先ほどわれわれが言っていたように、画家は実際の靴作りと思えるものを創作するけれども、自分が靴を作ることを知っているわけでもないし、また描いて見せる相手のほうも、同様に何も知らずに、ただうわべの色と形から見て判断するだけの人たちなのだ」(『国家』岩波文庫 p.356)

 優れた芸術家たちは、我々の世界に生起する現象を極めて精妙に模倣し、それによって「真実」に到達していると賞讃され、拍手喝采を浴びる。人々は優れた芸術的達成が、世界の「真理」に関する精密な理解に基づいていると信じ込む。そうした通俗的誤解に就いて、プラトンは徹底的な反駁を試みている。何かを「模倣する」という作業は、必ずしも当該の対象を「理解する」ことと結び付かない。事物の断片的な特徴を捉え、その最も明瞭な感覚的特性を強調すれば、それは充分に優れた「模倣」として機能し得るのである。優れた模倣者であることは、真理に関する優れた認識の所有者であることを意味しない。しかし、両者を等号で連結する世俗的な「謬見」は根強い。プラトンの芸術に関する論難の企図は、こうした伝統的な誤解を是正する為に試行されているように思われる。事実、優れた芸術家に対して賦与される社会的威信の大きさは、こうした通俗的謬見を礎として形成されている。彼らは卓越した「模倣」の技倆によって、人間性や世界の真実に関する優れた洞察を成し遂げたと評価される。そうした評価は表層的な錯覚に過ぎないというのが、プラトンの主張の焦点である。

 それに加えて、彼は「芸術」の齎す教育的な弊害に就いても警告を発している。

 「こういう事実を考慮してもらいたいのだ。――すなわち、先に自分自身の身に起った不幸に際しては無理に抑えられていたが、ほんとうは心ゆくまで泣いて嘆いて満たされることを飢え求めていた部分――というのは、そういったことを欲求するのが、魂のこの部分の自然生来の本性だからなのだが――まさにその部分こそが、いまや、作家(詩人)たちによって満足を与えられ、喜ぶところの部分にほかならないのだということだ。そして他方、われわれの内なる生来最もすぐれた部分は、理によって、また習慣によってさえも、まだじゅうぶんに教育されていないために、この涙っぽい部分に対する監視をゆるめてしまう。ほかでもない、自分がいま目にしているのは他人の身の上のことなのであり、すぐれた人物と称するひとりの他人がみだりに愁嘆にくれるとしても、その人を讃えたり痛ましく思ったりするのは、自分自身にとって少しも恥ずかしいことではないのだと、こういうわけなのだ。むしろ、先のようにそこから快楽を得ることができるなら、それだけ得ではないかと彼は考える。そして、詩作品を全体として軽蔑することによってその快楽を奪われることを、けっして承知しないだろう。

 というのは、他人事から享受したものは、必ずやわが身の事にも及んでくると考えてみることができるのは、思うに、ただほんの少数の者だけなのだからね。じじつ、痛ましさの感情を他人事に際して育くみ、いったん強力にしたうえは、自分自身の苦難にあたってそれを抑えるのは、容易なことではないのだから」(『国家』岩波文庫 pp.373-374)

 人間の「魂=精神」において一般に「感情」(pathos)と呼ばれる部位は、明らかに生成的で現象的な浮動を示す領域であり、それはプラトンの定義する「理性」(logos)及び「法律」(nomos)と対蹠的な性質を伴っている。プラトンは「感情=欲望」の自由な解放を人間性の堕落した形態として位置付けており、理想的な実存の様態においては、それらの要素は「理性」の支配に服属すると考えられている。「哲学」の観照的思惟が「魂」における「理性」に対応するように、「芸術」の感覚的模倣は「魂」における「感情=欲望」に対応している。腕利きの芸術家たちは、人間の内なる「感情=欲望」を刺激し、擬似的な充足を賦与することで、社会的な名声を獲得する。こうした「芸術」の効用を、プラトンは「知性的思惟」の障碍として排撃しているのである。芸術的享楽は、プラトンの考える倫理的な美徳の涵養を阻害する。

 個人の自由が尊重され、欲望の主体的な充足が健全な振舞いとして容認される社会においては、芸術という営為の価値は無限に高まり、その優れた体現者には惜しみない賞讃が寄せられるだろう。また、独裁的な権力が君臨し、民衆の自由が抑圧されている社会においては、優れた芸術家が「解放」の旗幟として人々の手で推戴されるのは自然な帰結である。しかしながら「感情=欲望」の放埓な解放に就いて、プラトンの提示する見解は頗る否定的なものだ。最も低劣で下等な部分に、精神を支配する全権を委任するのは、忌避されるべき「悪徳」に他ならないというのが、彼の確乎たる信念なのである。とはいえ、彼は必ずしも「感情=欲望」の充足自体を咎めているのではない。「理性=意志=感情」の調和と均衡に「正義」という至高の「美徳」を見出すプラトンは、決して「感情=欲望」の消去という残酷な措置を理想化している訳ではない。彼は「感情=欲望」の部位が欲する「快楽」を相対主義的な「錯覚」と看做し、代わりに「理性」に固有の「真実の快楽」を称揚している。プラトンの「正義」は非人間的な克己心の賜物ではなく、周到な論理によって「幸福」や「快楽」と接続されているのである。彼の論じる「守護者」たちの面影を、短絡的な連想と混同に基づいて「独裁者」と重ね合わせてはならない。

国家〈下〉 (岩波文庫 青 601-8)

国家〈下〉 (岩波文庫 青 601-8)