サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

プラトン「国家」に関する覚書 15

 プラトンの対話篇『国家』(岩波文庫)に就いて書く。

 他者の欲望を充足させる為の奉仕を、プラトンは「迎合」という言葉で呼んで批難する。そして政治的なポピュリズム、多数決の原理に基づいたデモクラティックな社会の懐で必然的に肥育される現象としてのポピュリズムを、狡猾な仕方で洗練された「迎合」の技術と看做す。ソフィストたちの巧緻な弁論も同様に、普遍的な真実を言い当てる為ではなく、他者の歓心を購い、敵対者を抹殺する為に駆使される技術である為に「迎合」の範疇への帰属を命じられる。こうした一連の方針は、同一の原理から派生した判断である。プラトンの思索は常に絶対的な本質の把握を奨励し、生成的な現象に眼を奪われることを「謬見」として戒めている。

 感覚に支配され、肉体に支配され、生成し消滅する事物に支配されること、これがプラトンの「悪徳」或いは「不正」に関する法廷に連行されるべき被告の罪状である。これらの罪状は何れも「時間の虜囚」という特質によって要約される。つまり、事物が絶えず変異し遷移し続けるのは、それが「時間」の支配下に置かれていることの必然的な反映なのである。従って「時間の虜囚」としての事物に関する認識は、普遍的な本質という「無時間的な真理」には該当せず、一種の幻影に過ぎないと判定される。

 プラトンの法廷は「真理」と「無時間性」を等号で結ぶ。何故なら「真理」は如何なる空間的=時間的制約も蒙らず、如何なる条件によっても左右されない絶対的な独立性を賦与された「事実」でなければならないからだ。若しも「真理」が変動し得るものであるならば、それは刻々と変容を重ねる現象的な認識と同化してしまうだろう。つまり「真理の不在」が、我々の実存と世界を拘束する基礎的な条件となるだろう。そして「真理」が絶えず玉虫色に移ろい続けるのならば、我々は首尾一貫した「正義」や、長期に亘って粘り強く推進される「計画」を堅持する根拠を喪失する。刹那的な相対主義の闇が猖獗を極め、我々は堪え難いニヒリズムの奈落へ陥るだろう。「真理の不在」は言い換えれば「宿命の不在」であり、一切合財を「偶然の生起」に還元することである。総てが「偶然の生起」に還元されるならば、我々は無限の「自由」を獲得し得るのだろうか? いや、恐らく我々は「意志」や「希望」を維持する根拠さえ奪われて、絶対的な受動性の十字架に縛り付けられることになるだろう。「真理と宿命の不在」は、我々から「人間性」の根拠を剥奪する。人間的自由の対義語は「宿命」ではなく「偶然」である。我々の自由は「宿命の改造」を通じて表現されるのであり、総てが偶然の気紛れに委ねられるのならば、我々の実存は如何なる意志的な努力も保持し得ない。極限まで推し進められた相対主義的偶然性への信仰は、我々を「真理=宿命」の抑圧から解放するのではなく、純然たる虚無の監獄へ幽閉するのである。

 偶然を必然に置き換える=読み替える努力、偶然に過ぎない事象の継起に何らかの因果律を読み込もうとする認識的な格闘、森羅万象を統率する超越的な「物語」の介在を信じること、偶然の邂逅に運命的な意味を見出すこと、これらは人間の特権であると同時に尊厳である。「総ては偶然の采配に過ぎない」と言い放つことは容易だ。人間が「神」を必要とするのは、単なる抑圧的な洗脳の帰結ではなく、それが「偶然の超克」を果たす為の根源的な足懸りとなるからだ。我々が恋に落ちるとき、恋人の存在を「世界で唯一の最高の伴侶」と思いたがるのは普遍的な慣習である。そして第三者は、その「運命的な思い込み」を「一過性の精神的麻疹」だと嘲笑したり、微笑みを浮かべて見守ったりする。無論、その出会いを「運命的なもの」だと看做すのは主観的な妄想だ。けれども、人間的な努力は「運命を信じること」によって支えられ、維持されるのである。偶然に過ぎない事象を、必然へ置き換える為に、人間は様々な悪戦苦闘に塗れるのである。

 こうした考え方は、総てを「運命の采配」と看做す極端な「予定説」の信者と化すことを意味するものではない。「偶然の生起」の絶対化と「必然の支配」の絶対化は、対蹠的なベクトルを持ちながら、その帰結においては逆説的な一致を示す。総てを「偶然」と看做す思想も、総てを動かし難い「必然」と定義する思想も共に、人間的自由、人間的幸福を否認する点では径庭がない。エピクロスは宇宙の開闢から持続する必然性の因果律に一匙の「クリナメン」(clinamen)を投じた。それは総てを不可知の偶発性に還元する為ではない。それは事物の必然的な因果性を、可塑的なものに変える為の決定的な工夫なのである。「偶然」と「必然」の潔癖な二者択一は不可避的に「人間的自由の廃絶」を惹起する。そうではなく、厳然たる因果律の必然的継起と、その可動域の双方を認めることが肝腎なのだ。因果律の存在と、その可塑性を承認することで、我々は「偶然を必然に変える」という崇高な実存的方針を樹立する権利を手に入れる。煎じ詰めれば、それは「自分の人生に意味を与える」ということであり、自己の実存の総体を一つの「価値」として結晶させるということだ。

 生成し消滅する事物の表象だけに囚われること、それは総てを「偶然」に委ねることと同義であり、世界に対する完全な受動性の裡に存在することと同じだ。総てが「偶然の賜物」に過ぎないのならば、我々の生命に固有の価値は生じない。相対的な現象の「彼岸」を信じることは、そうした現象の偶発的な継起を一つの独創的な「物語」に作り変えることを意味するのである。人生そのものは、唯物論的な偶発性と必然性の受動的な融合に過ぎない。それを固有の独創的な「物語」に置き換える為には、我々は何らかの「真理=宿命」を信じなければならないのである。

 「欲望」や「気概」に支配され、生滅を繰り返す「肉体」に占有されて生きることは、そうした超越的価値を否認することに等しい。他律的な要素に自己自身の支配権を明け渡すこと、それは偶然と必然の「反対の一致」に埋没し、自己の実存の固有性を圧殺することと同義なのである。そうではなく、事物の「実相」(eidos)を観照し、それに基づいて自己の実存を組み立てること、日々の生活を単なる生成的現象の継起に留めず、普遍的な必然性の下に再編すること、それが「生きること」の本義であるとプラトンは信じた。流されるままに受動的に生きるのではなく、設計主義的な意志の下に自己の実存を管制することの意義を、彼は精緻な論理を駆使して厳密に定式化したのである。そうしなければ、我々の人生は単なる受動的な生滅の総体として、知らぬ間に終焉を迎えてしまうだろう。普遍的な「本質」(ousia)に基づいて自己の実存を編制すること、欲望や感情に揺さ振られ、支配されるのではなく、それらを寧ろ意識的に支配すること、それが「人間」を「動物」から分離する最も本質的な根拠であり契機なのである。

 「迎合」という観念は、事物の「実相」(eidos)に関する認識よりも、生成的現象の感覚的把握を優越させることによって生じる実存の形態である。言い換えれば、それは「事物がどのように存在しているか」という問いよりも「事物がどのように見えているか」という問いを優先する態度である。実態がどうであれ、真理がどうであれ、感覚的で現象的な領域において「充足」が得られるのならば、それで一向に差し支えないという近視眼的な発想が、その特質である。「自分がどのように感じるか」ということ、或いは「他人がどのように感じるか」という問題に限って「焦点」(focus)を合わせる思考の形態は、感覚の裏側を省察する契機を欠いている。「その感覚は、如何なる構造に基づいて成立しているのか?」という客観的な考究の果実は、このような「迎合」の信奉者たちに向かって期待しても得られる見込みがない。彼らの思考は絶えず「現象」(phenomenon)の表層を水平的に移動するだけで、その立体的な構造を捉える抽象的な「視覚」を欠いている。彼らは見えたもの、感じたものだけを素朴に信じる。彼らには「過去」も「未来」も存在せず、事物の複数の断面を比較対照する能力も備わっていない。彼らは永久に感覚的な「現象」の虜囚として生きる。そこには「宿命」という超越的理念の影さえ存在しない。彼らにとって「宿命」とは不動の手枷に過ぎないが、事物の「実相」(eidos)を観照する者にとって「宿命」とは、自らの手で築き上げた「作品」に他ならないのである。

国家〈下〉 (岩波文庫 青 601-8)

国家〈下〉 (岩波文庫 青 601-8)