サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

プラトン「国家」に関する覚書 14

 プラトンの対話篇『国家』(岩波文庫)に就いて書く。

 「教育」に関する厖大な議論を終えた後、プラトンは「国制」と「国民」に関する精緻な考究へ移る。その成果として得られる政治的な認識は、二千年以上の時間的な隔絶にも妨げられず、現代社会の分析に転用することが可能である。「自由民主主義」の特質と弊害に関する考察は聊かも古びておらず、僭主独裁制に関する議論は「ファシズム」や「ポピュリズム」の病理を適切に穿っている。プラトンの粘り強い思索が備える潜在的な射程は極めて広範な領域に跨っているのである。

 自由主義的なデモクラシーが、民衆の熱烈な拍手喝采の下に「独裁者」を培養し、結果として国民の自由を破壊してしまう経緯は、我々にとっても他人事ではない。紀元前の哲学者によって既に喝破された筈の問題を、人類は数千年の長期に亘って幾度も蒸し返し、愚かしくも同じ過ちを懲りずに反復しているのである。民主化された社会に生きる我々は、「自由」という理念が卓越した価値であることを徹底的に教育されており、その成果はあらゆる分野に浸透しつつある。「自己決定」という概念の適用される範囲は刻々と増大し、主体性の尊重が美しい理想として声高に称讃される。それ自体は歴史的な必然から生じたものであり、その美しさと多様性は、プラトンによっても控えめに祝福されている。しかしながら、プラトンの真意が自由主義的なデモクラシーの称揚に捧げられている訳でないことは明瞭である。彼にとって「自由」という概念は「節制の欠如」を含意している。言い換えれば「自由」とは「欲望」のアナーキズム的な様態を肯定する危険な理念なのである。

 多様な欲望を肯定し、可能な限り、それらの実現を促進することは、自由主義の信奉する基礎的な原理である。それが人間に対する因習的な抑圧を除去し、幸福の増進に寄与してきたことは事実だが、プラトンの考えでは、そうした傾向の極限的な帰結が「独裁」という反自由主義的な政治形態を実らせるのである。自由主義が独裁の温床となるという観察は、ポピュリズムに関する分析に基づいている。デモクラシーの本質は「選良」の否定である。有能な君主を排除して、民衆の総意を優先することが、その政治的な特徴を成している。デモクラティックな社会においては、大衆の広範な支持を得ることが、政治的指導者の権力を正当化する根拠となるのだ。言い換えれば、知性や徳性に優れた人間よりも、大衆の生理を熟知し、彼らに迎合する技巧において優れた人間が、最も強大な権力を委任されることになるのである。

 自己の欲望を解放し、その積極的な充足を求めることが正当な権利と看做される社会においては、国家的指導者の選定に際しても、支持者たちの個別的な欲望が唯一の基準として定立される。支持者たちの好意を勝ち取る為には、彼らの欲望を満たしてやるのが最善の方策である。仮に支持者たちが背徳的な欲望の持ち主であったとしても、彼らの好意を確保する為ならば、指導者は背徳的な欲望の内包する弊害を不問に付すだろう。寧ろ支持者の機嫌を損ねないように、彼らの欲望を正当化する論拠を積極的に編み出すかも知れない。そして厖大な支持者たちの歓心を購うことに成功した指導者自身もまた、自己の欲望の充足に関してアナーキスティックな信念を以て行動するだろう。超越的な規範の代わりに、主観的な欲望が「正義」の根拠となり、他者を享楽へ導く誘惑者の資質が、優れた指導者の美徳として暗黙裡に表彰される。

 プラトンは、人間の魂を「理智=気概=欲望」の三つに区分して論じている。僭主独裁制は、各自の多様な欲望を承認するのではなく、恣意的に擁立された独裁者の欲望だけを総てに優先させる国制として定義されているが、こうした観察が、魂の内在的な秩序に照応していることは明白である。プラトンの精緻な議論は歴然たる「主知主義」(intellectualism)の立場に則って、欲望による魂の支配を最も堕落した実存的形式として批難している。尤も、その弁論は「気概」や「欲望」の価値を無条件に否定することを目的としているのではない。重要なのは「気概」や「欲望」が「理智」の統制に服属して、相互の調和を保つことであり、それこそが「正義」の本質であると看做されるのである。それは所謂「克己心」と呼ばれる意志的な規範とは異質である。「理智」の役割は「実在=真理」を観照することであり、認識的な迷蒙(即ち「感覚的表象」への隷属)を除去することである。つまり、プラトンの考える「克己心」とは専ら理智的な説得によって涵養されるのだ。

 プラトンの厖大な思索は「正義」と「幸福」を接続し、一体化する為に営まれる。彼の考えでは「理智」だけが「真実の快楽」を享受する権利に恵まれているのである。この「真実の快楽」という概念は、苦痛との対比によって示される相対的な「快楽」ではなく、それ自体として独立した純然たる「実在的快楽」を指している。こうした考え方は、認識において「感覚」の効用を重視したエピクロスの「快楽」に関する定義と決定的に異なっている。

 それゆえ、快が目的である、とわれわれが言うとき、われわれの意味する快は、――一部の人が、われわれの主張に無知であったり、賛同しなかったり、あるいは、誤解したりして考えているのとはちがって、――道楽者の快でもなければ、性的な享楽のうちに存する快でもなく、じつに、肉体において苦しみのないことと霊魂において乱されない(平静である)こととにほかならない。(エピクロス『教説と手紙』岩波文庫 p.72)

 伝統的に「アタラクシア」(ataraxia)と称される「平常心」の幸福、つまり「苦痛の不在」という表現で記述される相対的な幸福の観念は、プラトンの想定する「真実の快楽」とは相容れない。外在的な事物との関係性に基づいて定義される相対的な快楽は、プラトンにとって現象的な謬見に他ならない。彼が重視するのは普遍的で絶対的な「実在」であり、状況に応じて変動する「快楽」は所詮「紛い物」に過ぎないのである。

 「してみるとそれは、実際にそうであるのではなく、ただそのように見えるだけなのだ」とぼくは言った、「すなわち、静止状態がそのときどきによって、苦と並べて対比されると快いことに見え、快と並べて対比されると苦しいことに見えるというだけであって、こうした見かけのうちには、快楽の真実性という観点からみて何ら健全なものはなく、一種のまやかしにすぎぬということになる」(『国家』岩波文庫 p.310)

 プラトンは「苦痛からの解放」を「快楽」と看做すエピクロス的な定義を否認し、その相対主義的な性質を「まやかし」と断じる。「快苦」の循環的な遷移は、要するにそれらの感覚が生成的で現象的なものであることの鮮明な立証であり、従って「実在=真理」ではなく「現象=謬見」として排斥されることとなる。エピクロスの称揚する「アタラクシア」は、快苦の停止した「涅槃」(nirvana)の境地であるが、それが状況に応じて「快楽」とも「苦痛」とも呼ばれるのは、プラトンにとっては認識的な欺瞞に他ならないのである。彼の考究は、事物の絶対的で普遍的な「本性」に到達することを眼目としている。同一の事象が状況に応じて「快楽」と呼ばれたり「苦痛」と看做されたりするのは、それらの要素が何れも普遍的な「本性」ではなく、相対的な「偶有性」の範疇に属するものであることを示している。偶有的な快苦は、理智を通じて享受される本質的な快苦とは異質である。そして「気概」や「欲望」による自己支配を受け容れることは、本質的な快楽の恩恵に与る権利を自ら放擲し、偶有的で相対的な快苦の循環に身を委ねることと同義なのである。そうした事態は「不幸」であると看做すのが、プラトンの考え方である。彼に固有の「幸福論」は、普遍的な「実在」の観照を揺るぎない「歓喜」と結び付けることによって成立している。

国家〈下〉 (岩波文庫 青 601-8)

国家〈下〉 (岩波文庫 青 601-8)