サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

サラダ坊主の幸福論 19 セネカ先生のストイシズム(十一)

 引き続き、古代ローマの賢者セネカ先生の幸福論に就いて、私的な評釈を進める。

 理性には、感覚の刺激を受け、感覚から最初の情報を得ながら――理性が活動の端緒を得、真実の把握を目指す原動力を得るのはこの感覚以外にはないからだが――外的なものに向かわせ、再び自己へと立ち返るようにさせなければならない。万物を包摂する世界であり、宇宙の支配者である神もまた、自己の外部のものに向かって動きはするが、あらゆる方向から再び自己の内部へと立ち返るからである。われわれ人間の理性にも、それと同じことをさせなければならない。理性にも、感覚に従い、感覚を通じて外部のものへ延伸したあとは、感覚をも自己をも統御する統率者となるようにさせなければならないのである。そのようにして初めて、自己と調和した統一的な(精神の)力と権能が生み出され、思いなしにおいても、認識においても、確信においても自己分裂することなく、躊躇することのない(信頼に足る)あの確かな理性が生み出されることになる。(「幸福な生について」『生の短さについて』岩波文庫 pp.149-150)

 ストア派の伝統的な世界観に由来するものであると看做すべきかも知れないが、セネカ先生の幸福論は端的に言って「支配者の倫理学」とでも称すべき克己的で理智的な性質を潤沢に含んでいる。先生は堅牢な心理的秩序の構築を、理性の生み出す律法に基づいて実践することを重視しておられるが、こうした心得は必ずしも個人の幸福論に限って適用されるべきものではなく、国家や社会の健全な統治にも明確に当て嵌まる。先生の幸福論は法治主義的であり、理性に対する絶大な信頼を思索の根底に据えておられる。支配者と被支配者との厳格な峻別は徹底的に貫かれ、移ろい易く不安定な情念や欲望は、優れた理性による統御に屈するように命じられている。単一的な権力の機構が、掌握されるべき版図の総体を強力に管理し、不当な逸脱や愚かしい混乱を警戒して、絶えざる監視の眼を光らせ続けている。情念や欲望に身を任せることは悲劇的な滅亡の徴候であると同時に、脆弱な理性の欠陥を証明する最も明瞭な根拠である。未熟で粗暴な理性の持ち主は、情念や欲望を適正に制御することが出来ず、寧ろ積極的に、情念や欲望の側から発せられる尊大な要求に屈服し、彼らの奴隷と化して虐使される。そのようなアナーキズムの状態に陥っている限り、如何なる実質的な幸福も望み得ないというのが、セネカ先生の下す倫理学的な所見なのである。

 理性的な力への飽くなき讃嘆は、恐らく古代ギリシアから連綿と続く伝統的な思惟の様式である。無論、ギリシアに発祥した哲学の系譜が、厳格な論証の手続きと共に発展を遂げたものである以上、哲学的な幸福論が理智の働きに至高の価値を見出すのは自然な成り行きである。哲学的な幸福論は、正しい思惟と「真理」の把握によって、人間は最も充実した完璧な幸福へ到達すると説く。情念や欲望を飼い慣らすことの重要性は、一般に西洋哲学の実質的な開祖と目されるプラトンによっても繰り返し強調された倫理的な要諦である。彼は肉体的な享楽を「虚偽」と看做して斥け、専ら「真理」の把握によって「真実の快楽」へ至るべきであることを訴えた。感覚は脆弱で表面的な謬見しか掴まず、ただ理性だけが「真理」の認識を我が物とする権利を備えている。

 理性は、みずからを整え、自己の各部と調和し、自己の各部といわば唱和したとき、すでに最高善に触れている。なぜなら、もはやその理性には歪んだもの、滑りやすいもの、衝突したり転倒したりするものが微塵も残されていないからである。その行動はすべて理性みずからの指令の下に行なわれ、予期せぬことは何一つ生じることがなく、その活動は容易に、即座に、かつまた活動する理性そのものによって怯みなく実行され、ことごとく善き果実を生むことになる。実際、優柔不断やたじろぎは精神の軋轢や恒心のなさの証にほかならない。だから、大胆にこう公言してよいのである、最高善とは精神の調和である、と。協和と統一のあるところ、必ずや徳があるからであり、不和分裂は悪徳の習いとするところだからである。(「幸福な生について」『生の短さについて』岩波文庫 p.150)

 理性による完璧な自己支配、それがセネカ先生の論じる幸福の要諦である。無意識の衝動や肉体的な本能に強いられて、理智の統御が利かなくなるような事態は断じて回避せねばならない。無論、それは必ずしも理性による情動や欲望への強権的な抑圧や迫害を意味するものではない。重要なのは、プラトンの「魂の三区分」に関する学説においても示されているように、人間の心身を構成する諸要素の間の「調和」が保持されることである。セネカ先生の幸福論は極めて主知主義的な性質を帯びているが、その本質的な企図は、情動や欲望の完全なる死滅の裡に置かれている訳ではない。先生は決して、情動や欲望を残らず除去してしまえば、未来永劫に亘って揺るぎない幸福が確保されると論じておられるのではない。重要なのは、それぞれの要素が適切な分際を遵守し、相互の関係が適切な状態に調整されることであり、その調整を主管するのは専ら理性の役目である。支配は必ずしも抑圧や迫害の同義語ではなく、適切な仕方で行われる統治は、無法なアナーキズム的渾沌よりも遥かに多くの収穫を我々の精神に齎す。情動や欲望は無邪気な子供のような存在であり、適切に養育されれば自制と創意工夫を学ぶが、徒らに放任されれば粗野で貪婪な猛獣と化す。そして、粗野で貪婪な性質に導かれて、あらゆる忍耐を放擲し、賢明な思慮を通じて自らの行動を有意義なものに高めようと努力することを拒絶するようになれば、結果的に彼らは破滅の深淵へ投身する羽目に陥る。そうなってしまえば、彼らの内なる情動や欲望が求めていたものは何一つ手に入らず、彼ら自身の熱狂的な愚行が、彼ら自身のエゴイズムの期待と要求を手酷く裏切る事態に帰着するのである。理性=情動=欲望の融和的な三位一体が確立され、総てが共通の目標に向かって協力を惜しまないのであれば、その人間は絶えず落ち着いた精神的平安の裡に住まい、感情は惑乱を避け、欲望は過度な要求を差し控えるようになるだろう。尚且つ、こうした境地へ人間が到達する為には、理性は沈着であっても酷薄であってはならず、情動や欲望の苛烈な敵対者として振舞ってはならないという結論が導かれる。求められているのは理性の高圧的な「独裁」ではなく、理性を通じて確立された「調和」の保持であるからだ。

生の短さについて 他2篇 (岩波文庫)

生の短さについて 他2篇 (岩波文庫)

  • 作者:セネカ
  • 発売日: 2010/03/17
  • メディア: 文庫