サラダ坊主日記

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艱難と克己 セネカ「怒りについて」 2

 古代ローマの政治家であり哲人であったセネカの『怒りについて』(岩波文庫)を読む。

 劈頭の「摂理について」に続けて収められた「賢者の恒心について」もまた、専ら「徳」に殉じて歩む賢者の清廉な生き方に対して、自然や社会が加える不正への懸念を取り扱っている。言い換えれば、この書簡の受取人であるセレーヌスは、あらゆる人間の目指すべき高徳な境涯に達した偉大な人間が、何故諸々の無惨な命運に襲われ、非業の末期を遂げねばならないのか、高徳は幸福への唯一の普遍的な捷径ではないのか、という疑念に苛まれているのである。その意味では、この文章の論理的構造は「摂理について」と同質であると言えるだろう。
 セネカは、賢者であれば如何なる種類の災厄も艱難も免かれ得るという神秘的な御託宣を披歴している訳ではない。惨たらしい禍事が賢者の身の上に殺到することが有り得るのは、疑いようのない厳密な事実であり、多くの歴史的事象が、そのことを証明している。そこでセネカが駆使するのは、外在的な現実と内面的な心理とを峻別する論法である。つまり、セネカは不正な行為によって齎される災禍を専ら心理的な問題に還元し、物理的には不幸であっても心理的には幸福で有り得るという二元論的な理窟を用いて、セレーヌスの懸念の払拭に努めているのである。
 こうした議論の中核を成すのは「恒心」(constantia)と呼ばれる倫理的概念である。この徳は、如何なる外在的=客観的な事象によっても損なわれず揺さ振られることのない、極めて堅固な精神的安定性を意味している。この「恒心」という徳の力によって、賢者の身辺に押し寄せる総ての不正と悪徳は無害化され、自然の齎した抗い難い災厄さえ、その暴威に対しては失効が宣告されることとなる。外在的な現実そのものは、個人の随意に統制したり改革したりすることの出来ない事柄である。しかし、そうした事実によって喚起される自己の内面的現実は、統御し得るし改善し得る。理性の権能を用いて内なる情念の身勝手な蠕動を阻止し、外在的現実の齎す影響に併呑されぬよう努めること、これが「恒心」という徳目の概要である。専ら理性の働きに価値と権威を認め、情念や欲望を統制されるべき下位の現象として定義するセネカ及びストア学派の考え方は、アテナイの哲学者プラトンの教説にも通底するものであり、古代ギリシアの思想における包括的伝統であると考えられる。
 こうした考え方が、精神と肉体との二元論的弁別を思惟の前提に採用していることは明白である。感性的現実を侮蔑し、貶下することで、セネカは理性的判断の意義を絶対的な高みへ上昇させ、登極させる。感性的現実が如何なる状況と構造を備えようとも、それは精神の独立的な性質を毀損するものではなく、理性的な意志の働きを破壊するものでもない。四囲の現実が悉く深刻な苦境に占められていたとしても、精神が苦境に屈服する必然性は存在しない。感性的現実の蔑視という点では、セネカの思索はプラトニックな伝統を忠実に継承しているのである。他方、エピクロスの学統は、肉体に対する霊魂の独立や、霊魂自体の普遍的な永続性というアイディアを承認せず、肉体と霊魂との有機的な一体性を強調する(ルクレーティウス『物の本質について』岩波文庫)。ストア学派エピクロス学派との対立は、単なる感情的な反目に留まらず、普遍的且つ原理的な矛盾を内包しているのである。後世、セネカの学説に対する鮮明な敵意を告白したラ・ロシュフコーが、エピクロスの肩を持つのも当然の反応であると言えるだろう。
 心身の峻別に基づいたストア学派の勇猛で禁欲的な考え方は、少なくとも実践の原理としては有益な示唆に富んでいると思われる。プラトンのように普遍的で絶対的な「真理」の把握に至高の価値を求めるのではなく、専らセネカは現実的な処世の心構えとして、諸々の雄々しい徳目の意義を語り、論じている。その道徳的理念の要諦が「理性による自己支配」に置かれていることは明瞭である。理性の指示と命令に則り、絶えざる揺動を続ける情念と欲望を統制し、外界の事象に惑わされず、主体的な意志を堅持すること、あらゆる艱難を超越して穏当な「恒心」を保つこと、これがストア学派の提唱する「幸福」の形態である。言い換えれば、彼らは外界の現実に対する具体的で密接な関心を捨象する。心理的現実と外在的現実との不可避的な相関性を否認する。現実的な不幸は、賢者の内在的不幸を全く意味しない。その点では、彼らの提唱する幸福論は個人主義的であり、内面主義的である。社会的現実の改良によって人類の幸福の増進を図るという政治的野心は、ストイシズムの論理とは結び付かない。社会的現実が悲惨な不幸に覆われていたとしても猶、賢者自身は揺るぎない幸福の裡に自足することが可能であるからだ。仏教に擬えるならば、ストイシズムの教説は小乗的であり、他者の救済よりも個人の解脱を重んじる。ストイシズムの教説に浸潤した根深いエリーティズム(「賢者」を頂点とする人間の倫理的ハイアラーキーが前提されている)に就いても注意が必要である。

怒りについて 他2篇 (岩波文庫)

怒りについて 他2篇 (岩波文庫)