サラダ坊主日記

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艱難と克己 セネカ「怒りについて」 3

 古代ローマ文人政治家であったルキウス・アンナエウス・セネカの『怒りについて』(岩波文庫)の感想を書き留める。

 本書の主菜に当たる「怒りについて」と題された書簡体の長文は、人間の懐く「情念」(affectus)の中で最も狂暴で醜悪な「怒り」の弊害に就いて縷説したものである。セネカを含めたストア派の伝統的な学説は、情念の異常な奔騰を諸悪の根源と看做し、理性と意志の適切な運用によって情念の暴走を制御することに倫理的な規範を見出す。但し、ここで注意すべき点は、理性と情念との画然たる峻別の適否に就いてである。セネカは劇しい憤怒の醜悪な弊害を論じるに際して、幾度も動物の比喩を用いる一方で、同時に「物言わぬ動物たちは、人間の情念を欠いている」(p.94)と附言している。つまり、人間の情念は理性との間に対蹠的な異質性を備えているのではなく、寧ろ理性と不可分の構造を有しているのである。劇しい怒りと、それが四囲に及ぼす有害な影響は、理性から解き放たれた原始的で粗野な獣性の表現ではなく、理性そのものに内在する機能的不全の帰結なのである。怒りという悪しき情念は、理性の欠如によって齎されるのではなく、理性の異常な暴走の所産である。理性を持たない存在は必然的に、何らかの情念を保持することも出来ない。
 言い換えれば、ストア学派及びセネカ倫理学的知見においては、総てが理性の機能に関する問題に還元されるということである。理性の適切な運用に失敗すれば、誰しも内なる野蛮な衝迫の果てしない亢進を、自ら積極的に推し進める結果に帰着してしまう。人間の怒りは、理性の補助を蒙ることによって無際限な残虐性を帯びる危険を孕んでいる。動物の攻撃的興奮は、理性による増幅の効果を享けない為に、瞬間的な衝迫の範疇に留まる。しかし人間の情念は、発達した知性の推進力を借用して、無限遠点まで到達することが可能である。つまり、一般的通念の論じるように、必ずしも愚かな人間だけが怒りに駆られる訳ではない。人間の社会には、明晰な怒りというものが有り得るのだ。単なる理智の発達だけでは、憤怒の情動を統制する十全な条件には満たない。人間が怒りを燃え上がらせるとき、そこには必ず「怒り」の積極的効用に対する承認の判断が関与している。それゆえにセネカは、憤怒を弁護する様々な見解を羅列して、それらを順番に論破していく構成を採用したのだと思われる。
 情念は、理性的機能を通じて析出されるものでありながら、一定の強度を超過すると、理性による支配を断ち切るのみならず、主権を簒奪し、理性を屈服させ、虐使する。怒りを肯定する思考が、情念の誘惑によって樹立され、異なる思考の可能性を抑圧してしまうのである。それは理性の脆弱な性質に起因する現象であるとは限らない。発達した明晰な理性さえ、時には怒りという情念の暴発を容認してしまうからである。場合によっては、明晰な理性を専ら他者への憎悪や悪意に奉仕させ、悪用することすら起こり得る。つまり、知性の高度な発達は必ずしも、直ちに情念の適正な支配に帰結するとは限らないのである。
 情念による理性の支配と抑圧、それは癌細胞のように、健全な肉体から生まれながら、健全な肉体を裏切って蚕食し、健康な機能を毀損し、侵略し、最終的には滅亡へ帰着する。言い換えれば、情念とは理性の変質した形態、制御の困難な病態なのである。それは外部から侵入する異質な悪疫ではなく、自己自身の突発的な病変である。理性を健全な状態に保ち、病変を免かれ、絶えず円滑に機能するように管理を怠らないこと、これがセネカの論じる倫理学的な方針であり心得である。無論、それは容易なことではない。
 ストア学派は伝統的に「アパテイア」(apatheia)という概念を重視する。「アパテイア」は「情念の欠如」を意味する合成語であり、情念の働きによって阻害されることのない理性の健全な機能を指し示す。理性に固有の宿痾に譬えられる「情念」を排することは、如何なる感情も持たないという意味ではない(ストア学派において、情念は理性と不可分であり、一体化している)。理性の病変が悪しき情念を齎すのであれば、健全な理性は望ましい情念の形態として顕れる筈である。言い換えれば、彼らストア派の学徒たちは、情念を理性的なものと反理性的なものとに分類し、至高の境地と目される「アパテイア」の状態においては、理性的な情念だけが享受されると考えたのである。理性に服属する情念は「エウパテイア」(eupatheia)と呼ばれ、「怒り」に代表される種々の悪しき情念とは区別された。
 理性と情念が相互に一体的なものであるならば、理性が正しく運用されている場合には自ずとエウパテイアが生じ、理性が悪しき考えに囚われて歪んだ判断を持つ場合には、自ずと情念も混濁し、反理性的=反自然的な病変の状態へ陥り、度し難い不幸を惹起することとなる。そして理性の正しい運用とは、神々の定めた自然の「摂理」に即した思考と判断、及び行動を堅持することを意味する。
 このような見地に立って論じられる「怒り」の感情が、専ら解消されるべき忌まわしい病弊として遇されるのは当然である。セネカは徹頭徹尾「怒り」という悪しき情念の非道と害悪に就いて弛まぬ縷述を繰り返し、「怒り」という感情の必要性を擁護する総ての議論に対して厳格な反駁を積み重ねる。悪しき情念に依存した行為が如何なる正当性を主張したとしても、それは欺瞞に過ぎないというのがセネカの一貫した信念である。何故なら、悪しき情念に支配された人間の判断が、世界の「摂理」に適ったものである可能性は、原理的に皆無であるからだ。悪しき情念は、理性の倒錯的状態を直截に示唆する。それゆえ、怒りに駆られた人間の下す判断は、不可避的に「摂理」からの逸脱に陥っていると看做されるのである。

怒りについて 他2篇 (岩波文庫)

怒りについて 他2篇 (岩波文庫)