サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

Cahier(瞋恚・誹謗・希望)

*最近は蝸牛の速度で、セネカの『怒りについて』(岩波文庫)を読んでいる。読了したら改めて私的な感想を纏める積りなので、内容の詳細には立ち入らないが、セネカは「怒りについて」の全篇を通じて、只管に「怒り」という破壊的な情念の悪しき影響を、多様な視角から論じ続けている。「怒り」という情念の価値や効用を擁護する諸々の見解を想定し、それを片端から反駁するセネカの論理的執念は、所謂「バッシング」や「誹謗中傷」の横行する現代社会を生き抜く上で、有用な知見として参照し得る。
 古代ローマの有力な政治家であったルキウス・アンナエウス・セネカが活躍したのは紀元前後の時代で、概ね現在から二千年の昔に遡る。暴虐の皇帝として知られたカリギュラやネロの在世を生き抜いたセネカにとって、理不尽な瞋恚が齎す数々の弊害は非常に切実な問題であったのだろうと思われる。彼は「怒り」という悪魔的な情念に「勇敢」や「闘志」との共通性を見出す論説を斥け、正義の名を借りた「怒り」が享楽さえ伴うことの欺瞞を指弾し、不正や侮辱によって己の精神的均衡を破綻させることの度し難い愚かしさを繰り返し説いた。こうした考え方は、現代においても猶、重要な倫理学的意義を有している。そもそも、二千年の歳月を経ても一向に人類は「怒り」という悪魔的情念との望ましくない癒着の関係を清算出来ずにいる訳で、そういった意味では、古代の典籍に織り込まれた賢者の叡智は未だ古びるほどの日月を閲していないと言える。
 古代インドに発祥して東アジア全域に広まった「仏教」(buddhism)においても、「怒り」の情念は「三毒」(貪瞋痴)の一つに数えられ、根源的な悪徳の一種に定められている。「怒り」の齎す害毒については、千年単位の往古から既に批判的な言及が重ねられている訳である。にも拘らず、憤怒に起因する不毛な揉め事の類は根絶されず、戦争から児童虐待に至るまで、抑制されない破壊的情念の暴走は未だ枚挙に遑がない。インターネットの世界では誹謗中傷が日夜生起し、公道では所謂「あおり運転」で死傷者や逮捕者が出て、人種差別や各種のハラスメントも日常的に我々の耳目を占めている。新型コロナウイルスの流行が始まった当初は、マスクの購入者の列で順番を巡って掴み合いの喧嘩が起きたり、電車の中で咳込む客とそれを批難する客との間で諍いが起きたり、類似の事例は無限に存在する。
 それでも、社会全体としては「怒り」という情念を抑圧する方向へ、仕組みや通念が革められつつあることは事実である。ハラスメントの定義は拡張され、暴力に対する規制は強まり、人前で怒りを露わにすることの愚かしさと惨めさは徐々に、我々の社会的常識の目録に登録されつつある。この漸進的改善の鈍重な速度に憤怒を燃やしても益はない。真理が明らかにされたとしても、それを恒常的に実践することの難易度は、各自の努力に委ねられている。明瞭な真理が、斉一的に万人へ受け容れられるとは限らないのだ。そして今も猶、例えば「義憤」という仮面を被って、他者の悪事を論難し指弾する人々の邪悪な清々しさは世上に充ちている。他人の過ちを批難する正義の行為には、紛れもない甘美な悦楽が備わっている。それは悪魔的な嗜癖の一種と看做して差し支えない。他人の言行の瑕疵を発見して、それに仮借無い指摘を加えることに無上の喜悦を見出す習慣が、現代の社会には広く行き渡っているのである。この国の法律は私的制裁や復讐を禁じているが、実質的には、こうした誹謗中傷は脱法的な享楽として横行している。それらの行為は尤もらしい正論に基づくことによって「無辜」の資格を確保しているように偽っているが、その根本に「怒り」という破壊的衝迫が渦巻いていることは、セネカの指摘する通りである。彼は「自分は何も罪を犯していない」という「無辜」の自覚が、際限のない「義憤」の源泉であることに読者の注意を喚起しつつ、隅々まで「無辜」であるような人間が実在するかどうか、根源的な疑問を呈している。法律に抵触していないだけでは十全に「無辜」であるとは言えないとセネカは論じる。何故なら、我々の暮らす社会は、法律として明文化されていない数々の「美徳」によって支えられているからだ。他者への寛容は、法律の条文に依拠するものではなく、寧ろ「法律」という概念を生み出す基礎的な土壌に値する。法律の遵守によって他者を断罪する権利を獲得したと思い込むのは独善的な判断であり、狭量な人間になることを自ら選択し署名したに等しい。無論、悪事は処罰されねばならない。しかし、セネカは断罪に「怒り」を混えることの過ちを幾度も強調している。断罪の目的は怒りの発露でも他者の毀損でもなく、罪人の矯正である(但しセネカは、如何なる方法を以てしても改善されない悪人に就いては、極刑も止むを得ないという考えを明言している)。従って怒りと憎しみに基づいた厳正な処罰は「正義」という名の快楽に淫することと同義なのである。尤も、所謂「被害者感情」というものを鑑みれば「正義」の快楽に溺れないことは至難の業である。私自身、そうした忍辱に堪え得るかどうか、率直に言って心許ない。しかし、だからと言って耽溺が正当化される訳ではないし、憤怒と憎悪が根本的な解決を齎す見通しも立たない。生きることは時々、酷く困難である。だからこそ日々、学び続けなければならないのだろうと思う。

怒りについて 他2篇 (岩波文庫)

怒りについて 他2篇 (岩波文庫)