サラダ坊主日記

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艱難と克己 セネカ「怒りについて」 1

 古代ローマの政治家であり哲人であるセネカの『怒りについて』(岩波文庫)を目下繙読中なので、覚書を認めておく。

 本書の劈頭に収録された「摂理について」は、何故、正義を遵守する善人に対して種々の災厄が降り掛かるのか、という伝統的な疑念への応答を目的とした書簡体の文章である。古代ギリシア以来、正義は人間の信奉すべき重要な徳目として尊重されてきた。多くの哲学者は、正義を遵守することが善と幸福への確実な通路であることを繰り返し強調した。同時に彼らは、世界を超越的な絶対者による被造物として捉える考え方に基づいて、諸々の徳目の遵守と善行の蓄積は、この世界を設計した絶対者の意図に適合する営為であることを重ねて説いた。
 しかし現実には、明瞭な美徳に鎧われた賢者や善人でさえ、無数の不幸と悲惨に襲われることは稀ではない。神の御心に適う正しい言行を貫徹しても猶、悲劇的な宿命に見舞われるのだとしたら、果たして正義に殉じることは真に有益であり妥当であると言えるのだろうか。こうした疑念の提示が行われるのは至極当然の成り行きである。超越的な「摂理」が存在するにも拘らず、何故、正しい人間が酷薄な宿命によって蹂躙されねばならないのか、という疑念は、あらゆる宗教的=道徳的信仰の枠組みを瓦解させる危険な要素を濃厚に含んでいる。例えば遠藤周作の「沈黙」は、信仰に殉じる者を苛む悲劇的な宿命に対して何故「神」は「沈黙」を堅持するのか、という切迫した問いを作品の主題に据えている。そもそも「神の子」であるイエス・キリスト磔刑という歴史的事件が、同様の疑念を生み出す重要な源泉であることを看過すべきではない。
 こうした問いは、アテナイの哲学者プラトンが著した対話篇(例えば「ゴルギアス」)においても執拗に論じられている。正義を遵守する善人が往々にして、私利私欲の貪婪な追求に明け暮れる不正な人々の生贄となりがちである現実を踏まえて、正しい人間が幸福であり、不正な人間が不幸であるというソクラテス倫理学に対する疑念と反駁が提示される。言い換えれば、正義などの倫理的徳目と人間的幸福とを結合する考え方に対して、所謂「義人の不幸」という現実は極めて有力な反駁の根拠として機能するのである。
 この主題に就いてセネカが与えた回答は、義人の身の上に襲来する種々の不幸に関する解釈の変更に基づいている。先ず前提として、セネカは「摂理」を主宰する「神」が、正義を遵守する義人に害悪を及ぼすことは有り得ないと宣告する。つまり、傍目には不幸であり悲惨であると見える事象が、実際に義人の生涯を毀損する災厄である筈はないと推論するのである。それならば何故、数多の艱難辛苦が義人の身を襲うのか。それは神の寵愛によって齎された「試練」であるというのが、セネカの回答である。寧ろ堕落した悪人こそ、不幸や災厄から見限られるのだという論理的アクロバットが、彼の考え方を支えている。
 災厄や艱難は不幸ではなく、寧ろ恩寵であり救済なのだという解釈の変更は、必然的に、偶発的な不幸、無意味な悲劇というものの存在を排斥している。無意味に生起する災厄、神々の摂理とは無関係に勃発する艱難の存在を認めることは、義人こそ試練としての不幸に見舞われるという考え方の基層を破壊してしまうからだ。だからこそ、セネカは「摂理について」の冒頭で「摂理があらゆる事象を統括し、神がわれわれに関わりをもつということ」(p.11)を強調しているのである。森羅万象に単一の「摂理」の介在を見出す態度は、伝統的にストア学派の好敵手と目されてきたエピクロスの「クリナメン」(clinamen)というアイディアと対立する。ストア学派は「必然」の貫徹を信奉し、エピクロスは「偶然」の介入を容認するのである。

 贅沢を逃れよ。力を抜き取る幸福を逃れよ。それにひたっている精神は、何か人の定めが忠告すべく割り込んでこなければ、永遠の酩酊に眠るように腐って溶けてしまう。いつでも玻璃窓が風の吹き込みから守った者、次々交換される罨法で足を温められた者、その晩餐の間を、床に仕組まれ壁沿いにまわる暖気が心地よく保った者、こういう人間は、微風すら危険に感じ、わが身を凝らせるだろう。何にせよ度を過ぎれば害になるが、節度なき幸福は何より危険である。脳を揺さぶり、心を虚ろな妄想へ誘い込み、偽りと真実の中間の靄を大量にまき散らす。徳の支援の下に絶えざる不幸を凌ぐほうが、はてしない度外れの善で破裂するより、どれほどましなことか。断食の死のほうが楽である。食いすぎは破裂させる。(『怒りについて』岩波文庫 p.28)

 艱難を幸福と看做す以上、享楽的な生活は人間を堕落させ、麻痺させる根源的な不幸として定義されることになる。この勇ましく苛烈な実存的方針は、外在的条件に対する自己の超越という企図を暗黙裡に含有している。外在的な条件に左右されない堅固な自己の確立ということが、ストア学派的な幸福論の要諦である。その為には、艱難さえも幸福と読み替える理智的な努力が欠かせない。一般的な不幸を「幸福」として再定義すること、この異様なオプティミズムは、例えばキリスト教にも重大で決定的な影響を及ぼしていると思われる。

怒りについて 他2篇 (岩波文庫)

怒りについて 他2篇 (岩波文庫)