サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

サラダ坊主の幸福論 9 セネカ先生のストイシズム(一)

 エピクロス先生の幸福論に就いて一通りの検討を卒えたので、今度は古代ローマの政治家であり思想家であったセネカ先生の御講義を拝聴したいと思う。

 セネカ先生は一般にストア学派の哲学者に分類されるが、此処では敢て煩瑣な哲学史的問題に深入りする必要を認めない。その最大の要因は、ストア学派の歴史的な意義や特色に就いて包括的な見解を述べる力量や学識が私に欠けているという点に存するが、加之、この連載形式の記事の主題は飽く迄も古今東西の「幸福論」の吟味であって、哲学の歴史を精密に渉猟することではないという点も大きく影響している。それに、セネカ先生の倫理学的な知見を「ストア学派」という伝統的なラベリングと結び付けて読解しなければならない理由は目下、私の許には存在しておらず、寧ろ、無用の予断や通俗的な偏見に遮られて、先生自身の遺した筆致から虚心に汲み取られるべき叡智が混濁するような事態は絶対に回避せねばならないのである。

 今回、私はセネカ先生の遺著の中から特に「幸福な生について」(『生の短さについて』岩波文庫)と題された一篇の文章を選んで、個人的な吟味の対象に据えたいと思う。先生は劈頭、幸福を求める人間の普遍的な要求が、如何に実現の困難なものであるかということに注意を促している。

 ガッリオー兄さん、幸福な生を送りたいというのは人間誰しもが抱く願望だが、幸福な生をもたらしてくれるものが何かを見極めることとなると、皆、暗中模索というのが実情だ。それに、そもそも幸福な生を達成するというのは実に容易ならざる業なのであって、いったん道を誤れば、慌てて急げば急ぐほど、目指す幸福な生から遠ざかる結果を招いてしまうといったものなのだ。たどるその道が幸福な生とは逆方向に向かう道なら、急く速度そのものがますます大きな隔たりをもたらす因となるからである。(「幸福な生について」『生の短さについて』岩波文庫 p.133)

 この素朴な訓誡の行間には、エピクロス先生の場合と同様に、幸福論を主知主義的な見地から捉えようとする姿勢が隠見している。幸福の定義に関する無智が、大多数の人々を幸福からの離反や疎隔に陥れているとセネカ先生は判断しておられるのである。闇雲で流動的な生活は、我々から幸福の可能性を奪い去る。言い換えれば、我々が「幸福な生」の実現へ到達する為には、幸福に関する適切な省察に加えて、事前の周到な計画と自己自身の注意深い統御が不可欠なのである。

 それゆえ、われわれは、まず自分の求めるものが何かを措定しなければならない。次には、周囲をよく見渡し、どの道をたどれば目的地に最も早く到達できるかを見て取らねばならない。そうすれば、道が正しいものであるかぎり、道中そのものにおいて、日々どれだけの道程をたどり終えたか、自然の欲求がわれわれを駆り立てる目的地にどれだけ近づいたか、おのずと理解される。実際、先達に従うのではなく、諸所方々へと誘う人々の猥雑な喧騒や叫喚に呼び寄せられるままに、あちらこちらとさまよっているかぎり、たとえ善き精神を得ようと日夜骨折ってみても、短い生は亡羊の嘆のうちに瞬く間に過ぎ去ってしまう。それゆえ、どこを目指して進んで行くのかも、また、どの道をたどるのかも決めなければならないのである。もちろん、生というこの旅では他の旅の場合とは事情が異なるのだから、われわれが向かう目標に精通している経験者が誰かいなくてはならない。他の旅なら、目的地に通じるいずれかの道筋を見つけ出し、土地の人に尋ねつつたどりさえすれば、迷うことはない。しかし、この旅にあっては、最もよく踏みならされ、最も往来の激しい道こそ、最も人を欺く道なのである。(「幸福な生について」『生の短さについて』岩波文庫 pp.133-134)

 セネカ先生の考えでは、世の中の大多数の人々は「幸福」を齎すものが何であるかという本質的な設問に対して適切な見識を有せず、また「幸福」に関する確乎たる定義も持たずに、他人の模倣に終始して誤った道筋を選択し、結果的に不幸の渦中へ向かって頽落していると看做されている。他人の言行に容易く影響を受けて、厳密な理論的知識に基づかない流動的な選択を重ねている限り、人間は決して「幸福な生」を我が物とすることが出来ない。事実、誰もが幸福を追い求めて思い悩んでいるという我々の社会の実情は、我々が如何に幸福に関する深刻な無智と謬見を病んでいるかということの歴然たる証明である。我々は幸福の実態に就いて正しい理解を持ち合わせぬまま、闇雲に幸福らしきものを追い掛けては幾度も虚しい挫折を味わい、そのような愚行を積み重ねる裡に天賦の寿命を残らず空費してしまっているのである。

 だから、何よりも肝要とすべきは、羊同然に、前を行く群れに付き従い、自分の行くべき方向ではなく、皆が行く方向をひたすら追い続けるような真似はしないことである。さらに、多数の者が同意して受け入れたものこそ最善のものと考えて、事をなすに世評に頼ること、また、〈われわれには〉善きもの〈として通用している〉先例が数多くあるが、理性を判断基準にするのではなく、人と同じであることを旨として生きることほど、大きな害悪の渦中にわれわれを巻き込むものはないのである。次から次へと折り重なるようにして倒れ、累々たる人の山が築かれるのは、そのせいなのだ。群集が殺到し、押し合いへし合いするとき、折り重なる人の山が出来る――誰かが倒れれば、他人を巻き添えにせずにはおかず、前の者の転倒があとに続く者の転倒の引き金となるからだが――、それと同じことが生のあらゆる局面で生じるのは、見れば分かるだろう。(「幸福な生について」『生の短さについて』岩波文庫 pp.134-135)

 この一節は実に奥深い含蓄に満たされている。先ず端的に言って、この文章にはセネカ先生の有する主知主義的な性向が鮮明に表現されている。先生は「理性」を判断の基準に据えて、各自が「善きもの」の定義に就いて適切な検討を加えるように努めない限り、理想的な幸福からの疎隔は避け難いと論じておられる。他者の大多数が信奉する基準を無作為に受け容れて隷従することは、人間が不幸の渦中へ頽落する重大な要因として機能している。多数派の賛同に基づくデモクラティックな真理の判定方法は、見出された真理の正当性を聊かも保証しない。寧ろ多数派が最悪の選択に傾いた場合には、付和雷同の精神は最も深刻な損失と悲劇を我々の社会に齎すだろう。「世評」を真理と同一視する「羊」の精神は、我々の魂を容易に惑わせ、正しい道程から頻繁に逸脱させ、結果的に望ましい目的地への到達を妨げる。他者の模倣によって至高の幸福へ到達することは困難である。言い換えれば、セネカ先生の考えでは、我々が「幸福な生」を手に入れる為には先ず「理智」と「自立」という二つの美徳が確保されねばならないのである。大多数の人間が揺るぎない幸福を得られずに日夜煩悶を重ねている現実を鑑みる限り、多数派の総意としての「世評」に隷属することは概ね、不幸への捷径に踏み込むことを含意している。誰もが容易に幸福を手に入れられる社会であるならば、社会の総意に従うことは我々自身の幸福を約束する最も賢明な方途であると言えるだろう。しかし現実は異なり、程度は様々であっても、多くの人間が不幸を病み、手の届かない幸福の幻影に憧れて的外れな言行に貴重な時間を費やしている。それゆえに、多数派の示す規矩に縛られることは、不幸への頽落に直結してしまうのである。だから先ず我々は、他者の意見に惑わされない自立的な思索の力を涵養せねばならない。つまり「世評」ではなく「理性」を根拠として自らの生を律しなければならない。

生の短さについて 他2篇 (岩波文庫)

生の短さについて 他2篇 (岩波文庫)

  • 作者:セネカ
  • 発売日: 2010/03/17
  • メディア: 文庫