サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

サラダ坊主の幸福論 10 セネカ先生のストイシズム(二)

 引き続き、古代ローマの政治家であり思想家であったセネカ先生のストイックな御高説に就いて私的な論究を進めていきたいと思う。

 セネカ先生の倫理学的な省察において重要な位置を与えられているのは「理智」及び「自立」の二つの美徳である。これらの概念の包括的な対義語が「付和雷同」であることは論を俟たない。他者の意見に惑わされず、専ら理智の嚮導に従って「選択と忌避」の判断を積み重ねること、延いては「幸福」の実体に就いて明瞭な認識を獲得すること、これらの心得が、セネカ先生の提唱する幸福論の秘鑰を成している。

 過ちを犯して他者に累を及ぼさぬ者は一人もいない。みずからが他者の過ちの因ともなり、元ともなるのである。実際、前を行く者に唯々諾々として身を任せるのは害あって益なき行為であり、各人みずからが判断するよりも他人を信用するほうを選んでいるかぎり、生について決してみずから判断を下すことはなく、いつも他人を信用するだけで、かくして過ちは人から人へと次々に伝播し、われわれを転倒させ、転落させることになる。他人の顰みに倣うことで、われわれは自滅するのである。(「幸福な生について」『生の短さについて』岩波文庫 p.135)

 自立的な理智の堅持、こうした美徳を欠いたまま、他人の言い分や決断に盲従する生き方は、明確で主体的な意志を持たぬ為に、何らかの具体的な目的地を措定して針路を決定することさえ覚束ない。理性による検閲を経由せずに、他者の見解を盲目的に尊重するのは、謂わば偶然の采配に総身を委ねるのと同じことである。理性を師父と仰ぐか、それとも他者の命令や思惑に隷属するか、何れを選ぶべきであるかは歴然としている。しかし、誰もが強靭な自負心に基づいて他者の意向を峻拒し得るとは限らないのが世間の実情である。往々にして人間は、自分自身の理性の判定よりも、他者の見解への宥和的な同調の方に多くの安らぎを感じる。つまり判断の正誤よりも他者との関係を重んじ、客観的な正しさよりも他者に与える印象の方を厚遇するのである。そのような生き方を続けている限り、人間が「幸福な生」へ辿り着く見込みは実に乏しいとセネカ先生は戒めておられる。そういう生き方には持続的な指針が存在せず、他者の気紛れな判断によって右往左往することを否応なしに強いられるからである。それは我々の沈着な理智が命じる正しい道程からの絶えざる逸脱を齎す。従って、一時的に適切な針路を辿っていたとしても、偶然の采配によって容易に道を外れてしまう為に、何時まで経っても本来の目的地へ到着しないという不毛な状況が避け難い。

 群集から遠ざかりさえすれば、われわれはこの病弊から癒されるであろう。だが、現実は、己の悪の弁護人となり、理性に敵対するのが、大衆というものなのだ。自分が選んでおきながら、移り気な人気が向きを変えるや、あの男が法務官に選ばれたとは、などと選んだ当人が驚いている民会での光景も、それゆえである。われわれは、同じ事柄でありながら、あるときは是認し、あるときは批判する。多数(の意見)だからという理由で下されるすべての判断の、それが帰結なのである。(「幸福な生について」『生の短さについて』岩波文庫 pp.135-136)

 セネカ先生は、幸福論の具体的な探究に着手する以前に先ず、他者への盲目的な同調に基礎を置いた不安定な生き方の批判に紙面を割いている。理智に根差した主体的な生き方が前提として確立されていなければ、如何なる幸福論も無用の長物と化す為であろう。多数派の総意への無批判な賛同は、主体的な生き方の実現を根底から阻害する。それを先生は「理性」に対する「敵対」と呼称しておられる。独立不羈の精神の称揚、それは単なる他者の排斥や唯我独尊の驕慢を意味するものではなく、他者の見解よりも普遍的な理智の審判を尊重するという意味である。自己の偏狭な判断に固執せよと命じておられるのではなく、理智の審判に依拠した普遍的な意志を維持せよと訓戒しておられるのである。そうでなければ、幸福に関する探究は、不可避的に曖昧な破産を余儀なくされるだろう。

 幸福な生について論じる際、元老院の議決の仕方に倣って、「こちらのグループのほうが多数と思われる」などと答えてよい理由はない。多数だからこそ、かえって悪いのである。およそ人の世の営みには、より善きものが多数の者に是とされるほどの合理性はない。大衆の是認こそ、最悪のものであることの証にほかならない。だから、問うにしても、何が最も通用しているものかではなく、何がなすべき最善のものか、何が真理の最悪の解釈者である俗衆に是とされているものかではなく、何がわれわれに永続的な幸福を所有させてくれるものかを問おうではないか。(「幸福な生について」『生の短さについて』岩波文庫 p.136)

 セネカ先生の論調は高踏的なエリーティズムの色彩を露骨に含んでいる。先生は俗衆を明瞭に蔑視し、その依存的で受動的な理性の様態を批難している。そのことの良し悪しを今は論じようとは思わない。重要なのは、多数派の賛同が真理の正当性を保証する揺るぎない根拠とはならないという点に着目することである。常に大衆が判断を誤ると断定することが妥当であるかどうかは扨措き、多数派の賛同する見解に半ば自動的な仕方で正義や真理の尊称を冠する仕組みに対しては、警戒を怠るべきではない。つまり、我々は先ず何よりも主体的に判断し、理智の嚮導や示唆に従って適切な思慮を行なう態度を身に着けねばならないのである。他者の意向や思惑に従属するのではなく、専ら理智の命令に服従すること、理論的な帰結に基づいて生活を設計すること、こうした主体性の美徳を確立しない限り、幸福論の探究は如何なる果実も結ばない。

生の短さについて 他2篇 (岩波文庫)

生の短さについて 他2篇 (岩波文庫)

  • 作者:セネカ
  • 発売日: 2010/03/17
  • メディア: 文庫