サラダ坊主の幸福論 11 セネカ先生のストイシズム(三)
引き続き、セネカ先生のストイックな御高説を拝聴し、自らの幸福論的探究の充実に役立てたいと思う。
私がここで言う「俗衆」には、花輪をかぶった連中も、ギリシア風の外套を着込んだ連中も含まれている。(幸福な生というものを考える際)私が目を向けるのは、身体を覆う衣装が何色かという問題ではないからだ。事、人間に関しては、私は肉眼を信用しない。私には真偽を識別するさらに確かで優れた(心)眼がある。精神に関わる善きものは、精神に見出させるがよい。(「幸福な生について」『生の短さについて』岩波文庫 p.136)
この一節は、セネカ先生の倫理学的な省察が、古代ギリシアにおけるソクラテス以来の主知主義の系譜に連なるものであることを明瞭に示唆している。此処には、感覚的認識を不確かな謬見として貶下し、専ら理性的認識の優越を説いたプラトンの思想が残響している。先生は感覚を通じて得られる様々の浮薄な認識に拘泥せず、また他者の弄する流動的な言説にも左右されずに、普遍的な理智の審判に基づいて生を歩むことを厳格に勧告している。事物の真偽を糺す為には、相対的な感覚の判定よりも普遍的な理智の判定を重んじる方が有益なのである。感覚的認識は瞬間的且つ流動的なものであり、刻々と変化して、様々な理由で厄介な錯覚を我々の精神に齎す。それゆえ、感覚的認識に総ての審判の基準を委ねている限り、我々の生は絶えざる逸脱と動揺を免かれることが出来ない。これは他人の見解を鵜呑みにして右往左往し、正しい道を頻繁に踏み外してしまう付和雷同の精神が陥る困難と同型の構造を備えている。重要なのは、人生において計画的で統一的な方針を堅持することであり、目先の現象や瞬間的な認識に影響されて本来の道程を外れるような過失を排除することである。
精神は、その善きもののために一息つき、自己へ立ち返る余裕が与えられれば、みずからを責め、ああ、どれほどの真実をみずからに告白し、みずからに語りかけることであろう、「自分がこれまでに行なってきたことはすべて、しなければよかったと思うことばかりだ。これまでに語ったあれこれを反省してみると、唖者がうらやましい。今にして思えば、自分が望んだものはすべて、自分に悪意を抱く者たちの呪いであった。自分が恐れたものはすべて、ああ、何ということ、自分が切望したものに比べて、何と取るに足らないものであったことか。自分は多くの人間と敵対関係をもち、また、悪人同士のあいだにいささかでも親愛の情というものがありうるとしての話だが、憎悪を捨てて親愛関係に戻ったこともあった。しかし、自分はいまだに自分自身の友ではない。自分は全力を傾注し、衆に抜きん出、何かの才を磨いて注目を浴びる存在になろうと努力してきた。だが、それは、みずからを敵の攻撃の矢面に立たせ、悪意に誹謗中傷の種を与えること以外の何であったろう。お前の雄弁を褒めそやす者たち、お前の富に靡く者たち、お前の愛顧に阿る者たち、お前の権勢を賞揚する者たちを、お前は目にしているであろう。あれは皆、敵か、さもなくば、同じことだが、敵となりうる者たちなのだ。賛嘆する人間の数だけ、嫉妬する人間がいる。なぜ本当に善きもの、誇示するためのものではなく、みずからが実感する善きものをこそ、追い求めようとしないのだ。人々が視線を向けるもの、人々が足を止めるもの、人々が互いに吃驚しつつひけらかし合うもの、そのようなものは、外見はきらびやかに見えても、内実はみすぼらしいものにすぎない」と。(「幸福な生について」『生の短さについて』岩波文庫 pp.136-138)
他人の思惑に依存し、それに振り回されることの深刻な弊害を、セネカ先生は何にも況して徹底的に糾弾し、排撃しておられる。他人の称讃を何より強く欲しながら、同時に他人の悪意に満ちた誹謗を過度に恐懼する俗人の振舞いは、恵まれた「幸福な生」へ到達する為の適切な生き方の作法から、遥か程遠い場所で生起している。自分の持ち物を、金銭や資産に限らず、持ち前の能力や資質も含めて、他人に向かって誇示することを生き甲斐とするような振舞いは、愚昧な悪徳に分類される。
所謂「SNS」全盛の現代に生きる我々にとって、他者からの承認を何よりも強く欲望することは最早奇態な心理的現象ではなくなっているが、他者からの評価に依存して自らの生を設計することは、先生の考えでは揺るぎない幸福から最も疎隔した態度なのである。大多数の人間が肯定的に言及し、大袈裟に称讃する事物に最大の価値を認める民主的で資本主義的な制度は、現代の社会を構成する最も基幹的な構造である。そこでは成る可く多くの「他者」が認めるものに至高の評価が授けられ、真理と正義の尊称が冠せられる。最大の得票数を集めた者が国家の首魁として推戴される政治的制度に象徴されているように、現代においては、そうした他者依存、他者志向の風潮は極限まで亢進し、生活の随所に隈無く浸潤している。他者からの批難や罵詈は、極めて容易に、迫害される当事者の精神を窮迫させ、場合によっては不幸な自死に追い遣ってしまう。他者からの評価が、自己の生存の価値の判定を完全に掌握している為に、そのような極端な事態が現出するのである。そうであるならば猶更、セネカ先生の幸福論は重要で実践的な意義を、現代に生きる愚かな我々に提示して下さるものであると言えるだろう。アメリカの社会学者リースマンが自著において提唱した「他人志向型」という概念は、伝統的な慣習や内在的な道徳律ではなく、専ら同時代的な他者の動向に適応しようとする努力を、人生の原理として採用している現代の大衆社会の特徴を言い当てる為に創案されたものである。このような他者志向の生き方が培養する精神的な害悪を癒やす為には、セネカ先生の言葉を借りるならば「自己へ立ち返る」ことが先ず肝腎なのである。