サラダ坊主の幸福論 14 セネカ先生のストイシズム(六)
引き続き、古代ローマの政治家であり偉大な哲人であったセネカ先生の幸福論を繙読し、私的な評釈を試みる。
敷衍した定義が望みなら、原義を何ら損なうことなく種々の様相をもたせて、また別様に言い換えることもできる。なぜなら、幸福な生とはこうだと言って何の支障があろう、すなわち、精神が自由にして実直、何ものにも怯まず、何事にも揺るぎなく、恐れや欲望の埒外にあり、名誉あるものを唯一の善、恥ずべきものを唯一の悪とみなす精神であり、その他の有象無象は、幸福な生から何ものをも減ぜず、幸福な生に何ものをも加えず、来るときも去るときも最高善には何の増減もない、無価値に等しいものである生である、と。精神がそのような礎の上に立っていれば、望むと望まざるとにかかわらず、みずからの内にあるものに喜びを見出し、みずからの内にあるもの以外のものは望まないものとして、当然のことながら、不断の快活さと深奥から湧き上がる深い喜悦が必然的にその精神に付き従う。その精神が、そうした快活さや喜悦と、矮小な肉体の些細で束の間のものにすぎないつまらない感覚(的反応)とを比較考量し、どちらが価値の高いものか判断するのは理の当然ではないか。(「幸福な生について」『生の短さについて』岩波文庫 pp.141-142)
要するにセネカ先生は「自足」を至上の美徳として崇め、その不動で堅牢な喜悦の経験に最高の価値を認めておられるのである。官能的な快楽は、常に有限で刹那的な経験であり、その無際限な持続を希求するのは不可能な夢想である。そもそも快楽は、欠乏が解消される過程の裡に存するのであり、一旦充足へ達してしまえば、不可避的に消滅し、我々に倦怠の感覚を齎す。どんな強烈な快楽も、慣れてしまえば凡庸な不感症に移行する。快楽は本質において相対的な現象であり、欠乏と充足との断層によって喚起されるのだから、絶えず新たな断層を作り出して何らかの飢渇へ回帰しない限り、快楽を味わい続けることは出来ない。快楽は決して持続せず、必然的に欠乏ゆえの苦痛を内包している。言い換えれば、快楽は定言的に苦痛を伴い、苦痛と融合しているのである。従って、快楽を蒐集することによって絶対的な幸福の境地へ達することは出来ない。快楽を賞味する為には必ず事前に苦痛の関与が不可欠であり、謂わば快楽と苦痛は交互に出現する無限の循環を形作っているのである。快楽は時間の経過と共に不可避的に失われ、どんなに悔やんでも嘆いても、その宿命的な衰滅を取り消す術は存在しない。若しも快楽の再帰を望むのならば、手持ちの充足を叩き壊して新たな欠乏と飢渇を自らの裡に呼び込まねばならない。つまり享楽主義者は、快楽を得る為に敢て苦痛の到来を要求するという奇態な自滅的営為と縁を切ることが出来ないのだ。彼らは充足を愛さず、自らの手でそれを積極的に毀損し、解消された筈の苦痛を復活させ、新たな快楽への期待に身を焦がす。彼らの精神は安息や平静を決して好まない。
快楽に支配されたその日が、苦痛に支配される日々の始まりとなるのである。この快楽と苦痛という、何よりも不定で、何よりも自制の利かない主人がこもごも支配する精神が、どれほど惨めで、有害な隷属に耐えねばならないことになるかは分かるであろう。したがって、われわれは自由を目指して脱出しなければならないのである。その自由を与えてくれるものは、運命の無視を措いて他にない。運命を無視したそのとき、計り知れない価値をもつ、あの善きもの、すなわち、
安心立命 の境地に立つ精神の平穏と崇高さが、さらに、真なるものの認識によって過誤が払拭された揺るぎない大きな喜悦が、また親愛の情と精神の寛闊さが沸々として生じ、精神はそうしたものに、それ(自体)が善きものという理由からではなく、みずからの善きものから生じた(善き)ものという理由から、喜びを覚えることになるのである。(「幸福な生について」『生の短さについて』岩波文庫 p.142)
享楽主義者は、快楽と苦痛の目紛しい交替の過程に対して絶えざる屈服と隷属を強いられ、その放縦で奔放な生活の態度とは裏腹に、主体的で意志的な自由を完全に剥奪されている。肉体の内部に予め生得的に埋め込まれた感性的な機能の効果に魅せられ、享楽の命令に一から十まで頷いてみせる彼らの生は、外界からの独立の代わりに、外界への救い難い依存に基づいて組み立てられている。彼らは自らの意志で享楽を味わっていると言うよりも寧ろ、享楽によって精神的領野を全面的に占有され、使役され、奉仕させられているのである。理智の代わりに享楽の感覚的機能を主権者として推戴する彼らの生存は、外界との間に極めて受動的で浅ましい関係を取り結んでいる。セネカ先生は、そのような地獄の境涯からの脱出を勧めておられる。絶えず快楽と苦痛への無惨な服従を強いられる生よりも、快楽と苦痛を共に統制し、理智的な計画を優先し、平穏で充実した境涯の裡に安らう生の方が、遥かに「幸福」の名に相応しいと先生は論じておられるのだ。一過性の高揚と、永続的な充足とを比較して、何れがより優れているかを判定するのは決して困難な作業ではない。一過性の高揚、即ち享楽を貪欲に追い求めることは誰にとっても容易いが、その累積した負債を償却するのは断じて容易ではない。しかも快楽は常に苦痛という代償を我々に対して要求し、絶対にその支払いを免除しない。死ぬまで快楽に耽溺するということは同時に、死ぬまで苦痛の業火に身を焼かれるということを意味するのである。そうした無益な輪廻の過程を逃れることが、先生の提唱する幸福の実相である。情動や欲望は、我々の肉体に内在する「運命」であり、その「運命」を黙殺することによって初めて、人間は幸福な自由を購うことが出来るようになるのだ。