サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

サラダ坊主の幸福論 16 セネカ先生のストイシズム(八)

 引き続き、古代ローマの賢者セネカ先生の幸福論に就いて個人的な探究を進める。

 「しかし、精神も快楽を覚えるはずだ」、そう言う人もいる。いかにも、精神にも快楽を覚えさせ、奢侈と快楽の審判人の席につかせるがよいのである。精神をしてみずからを、感覚に喜びを与えるのが常であるありとあらゆる快楽で満たさせ、さらには過去を回想させ、過ぎ去った快楽を思い浮かべてはかつての快楽に酔いしれさせ、さらに将来の快楽を今や遅しと待望させ、次から次へと続く期待に胸ふくらまさせ、肉体が栄養満点の餌に満腹して寝そべりながら今という時を過ごしているあいだ、来るべき未来の快楽に思いを馳せさせるがよいのである。その精神は私にはなおさら不幸に思えるだろう。なぜなら、善きものの代わりに悪しきものを選ぶのは狂気の沙汰だからである。(精神の)健全さがなければ誰も幸福ではなく、いまだ来らざる未然のものを最高善とみなし、それを追い求める者は誰も健全ではない。したがって、幸福な人とは判断の正しい人のことなのである。幸福な人とは、それがどのようなものであれ、現在あるもので満ち足りている人、今あるみずからの所有物を愛している、みずからの所有物の友である人のことなのである。幸福な人とは、理性の勧めに耳を傾け、理性の勧める、みずからが関わる物事のあり方を受け入れる人のことなのである。(「幸福な生について」『生の短さについて』岩波文庫 pp.144-145)

 快楽は、苦痛や欠乏の解消される移行的な過程において顕現する。従って、時間の流れを堰き止めない限りは、生じた快楽は必ず衰微し、不可避的に失われてしまう。それでも快楽だけを人生の唯一の意義のように劇しく貪婪に探究する人々は、絶えず新たな快楽を手に入れる為に、新たな苦痛や欠乏の深淵へ自ら好んで飛び込んでいく。彼らを駆り立て、衝き動かしているものは常に「未来への期待」であり、今この瞬間に存在しないものへの憧れである。何故なら快楽は決して永続せず、束の間の充溢として一瞬で人々の胸底を駆け抜けてしまう儚い幻であるからだ。その期待が叶っても潰えても、何れにせよ彼らが絶えざる「期待」に追い立てられ、片時も安住を許されぬ境涯に拘束されているという事実は動かない。或いは又、過ぎ去った甘美な時間の追憶に明け暮れ、耽溺する人々も同様である。「期待」が現に存在しないものへの憧憬であるのと同じく、「追憶」も現に存在しないものへの郷愁として構成されている。幾ら鮮明に思い返したとしても、往時の甘美な快楽が再び顕現することは有り得ないが、それが新たな快楽への「期待」を一層増幅させる重要な素因となることは、容易に考え得る事態である。何れの場合においても、彼らが現在の幸福を蔑ろにして顧みず、絶えず現存しない対象への欲望に引き摺られていることは明瞭である。言い換えれば、そもそも欲望は常に「現存しないものへの接近」という形で構造化されており、従って人間が欲望の虜囚と化している限り、彼らは常に「現存するものの価値」を不可避的に黙殺せざるを得ない状況に追い込まれているのである。幸福が「現存するものによって充足すること」を意味するのならば、他方、享楽は「現存しないものによって充足すること」或いは「現存しないものによって充足することへの期待」を意味している。享楽的な人間が絶えざる飢渇に苛まれるのは論理的必然である。欲望への隷属は直ちに「現存するものの価値」への蔑視を喚起するからである。

 最高善は下腹部にあると言った者たちも、自分たちがいかに恥ずべき場所に最高善を置いたかを自覚している。彼らが、快楽は徳から切り離せないと言い、「何人も快楽に生きずしては有徳に生きること能わず、有徳に生きずしては快楽に生きることもまた能わず」などと言っているのも、それゆえである。どうすればこれほど正反対のものを結合させ、一つに合体させられるのか、私には分からない。どうか言ってくれたまえ、快楽が徳から分離できない理由は何なのか。善きものの始原はすべて徳に遡るから、さぞかし、君たちが愛しもし、恋い慕いもする善きもの(快楽)も当然その徳の根から生じるものだから、ということなのであろう。だが、君たちのその快楽と徳が不可分のものなら、快いけれども有徳ではないものもあり、また、この上なく有徳であるけれども困難で、苦しみを通してしか達成できないものもある理由が理解できないことになる。加うるに、快楽はこの上なく恥ずべき生にも訪れるが、徳は悪しき生を許容しないという事実、また、快楽がないわけではないにもかかわらず不幸な人、いや、まさにその快楽ゆえに不幸な人もいるという事実もある。快楽が徳と混合し、一体のものとなっているのなら、そのような事実は生じえないはずだ。徳というものは快楽を欠くことがしばしばで、まして快楽を必要とすることなどいっさいないものなのである。(「幸福な生について」『生の短さについて』岩波文庫 pp.145-146)

 セネカ先生の攻撃的な言及は、エピクロス先生の門下生たちに対して差し向けられたものである。尤も、セネカ先生はエピクロス先生本人の教義を直接的に批難しているのではなく、門下生たちの悪しき曲解を糾弾しているのである。この論述を通じて批判されている快楽は、エピクロス先生の論じた快楽とは異質なものであり、厳密には享楽的な欲望を指し示している。恐らくエピクロス先生の節度に富んだ幸福論を悪用して、享楽的な生活を弁護しようと企てる悪質な詐欺師たちが、当時の社会には横行していたのだろう。エピクロス先生自身は「メノイケウス宛の手紙」において明瞭に、自分の論じる快楽が、享楽的な意味での快楽とは全く異質な心理的現象であることを強調しておられる。適切に検討すれば直ちに諒解されることだが、エピクロス先生の幸福論とセネカ先生の幸福論とは、本質的な部分で大いに合致している。両者共に、欲望や情動に駆り立てられる卑しい生を排し、可能な限り現存するものだけで満足する習慣を身に着けるように、また理智の鍛錬を通じてそのような境涯に至るようにと勧告しておられる。自己の主権を理智に委ね、底知れない享楽に耽溺して絶えざる飢渇を病むような悪弊と手を切ること、外界に惑わされず静謐な自足を愛すること、これらの命題は悉く、エピクロス先生とセネカ先生の教義の裡に共通して見出される重要な訓誡である。セネカ先生が問責しておられるのは決してエピクロス先生の倫理学的知見ではなく、飽く迄も愚昧で狡猾な享楽主義者たちの旺盛な詭弁なのである。

生の短さについて 他2篇 (岩波文庫)

生の短さについて 他2篇 (岩波文庫)

  • 作者:セネカ
  • 発売日: 2010/03/17
  • メディア: 文庫