サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

サラダ坊主の幸福論 7 エピクロス先生の静謐な御意見(六)

 引き続き、古代ギリシアの賢者エピクロス先生の幸福論に就いて検討を進める。既に前回までの記事で、私はエピクロス先生の幸福論と「快楽」に関する考え方が、過激で貪婪な「享楽主義」(hedonism)とは一線を画すものであることを確認し、強調した。先生が幸福の内実として定義しておられるのは身も蕩けるような苛烈な享楽ではなく、絶えざる飢渇に追い立てられて執念深く外在的な悦楽を探し求める粗野な動物性でもない。先生は飽く迄も「苦痛の排除」という無風の状態を尊重しておられるのであり、自ら欠乏を作り出して、その充足の過程における強烈な享楽を繰り返し再燃させようとするヘドニストの流儀は、先生の価値観とは全く相容れないものであることに読者諸賢の注意を喚起したい。

 つぎに、自己充足を、われわれは大きな善と考える、とはいえ、それは、どんな場合にも、わずかなものだけで満足するためにではなく、むしろ、多くのものを所有していない場合に、わずかなものだけで満足するためにである、つまり、ぜいたくを最も必要としない人こそが最も快くぜいたくを楽しむということ、また、自然的なものはどれも容易に獲得しうるが、無駄なものは獲得しにくいということを、ほんとうに確信して、わずかなもので満足するためになのである。質素な風味も、欠乏にもとづく苦しみがことごとく取り除かれれば、ぜいたくな食事と等しい大きさの快をわれわれにもたらし、パンと水も、欠乏している人がそれを口にすれば、最上の快をその人に与えるのである。それゆえ、ぜいたくでない簡素な食事に慣れることは、健康を十全なものとするゆえんでもあり、また、生活上果たさねばならない用務にたいして人間をためらわずに立ち向わせ、われわれがたまにぜいたくな食事に近づく場合に、これを楽しむのにより適した状態にわれわれを置き、また、運にたいして恐怖しないようにするゆえんである。(「メノイケウス宛の手紙」『エピクロス――教説と手紙』岩波文庫 pp.71-72)

 自己充足とは何か。それは要するに幸福な充足の根拠を殊更に自己の外部へ求めないで済ませるという心理的な態度を指している。従ってそれは必然的に、欲望と享楽に関する我々の貪婪な基準を下方へ向かって修正する作業を伴う。こうした考え方は洋の東西を問わずに数多の賢者が支持してきた普遍的な考想であり、例えば仏門の経典にも「少欲知足」という四字熟語で要約される倫理学的な省察が頻々と登場する。欲望を減らして充足の基準を切り下げるという心理的な工夫は、人間が旺盛で貪婪な享楽主義を免かれて精神的な安寧を確保する上で、歴史的にその価値が認められた重要な営為なのである。加之、先生は清廉な禁慾そのものを美徳として過剰に称揚することなく、時には贅沢な享楽の機会を持つことも排除していない。欲望の規模さえ適切に抑制されているならば、我々は貪婪な執着によって更なる飢渇を煽り立てられることなく、また享楽の大小や強弱を問わず、与えられたものの裡に安住し、深く落ち着いた幸福を享受することが出来る。先生の幸福論において最も肝腎な点は「飢渇」や「欠乏」といった負性の状況を惹起しないことであり、入手し難いものに憧れて深刻な欠乏に悩むような不満足の境涯を撤廃することである。

 もっと厳密に言えば、自己充足とは自己の外部に充足の根拠を求めない態度を意味している。無論、人間は様々な側面において外界との連携によって支えられており、例えば酸素がなければ呼吸は出来ず、食物がなければ肉体を維持することは出来ない。けれども、夥しい金銭や数多の異性や過分な社会的栄誉など、容易には手に入れ難い外在的な対象への執着を絶ち切っても、自己の存在を維持することが不可能になるとは言えない。先生は総ての欲望を撤廃せよと過激な廉潔さを以て議論を進めておられるのではない。無用で不自然な欲望は満たされ難く、従って欠乏や苦痛を培養し易いから、成る可く排除した方が精神の平静に役立つと、至極簡明な摂理を陳述しておられるだけである。欲望の増大は飢渇の増大であり、欲望の入手が困難であればあるほど、飢渇は慢性化し、心身の安寧は自ずと妨げられる。過大な理想主義が、現実との断層に打ちのめされて鬱病などの心理的な煩悶を生み出すことは夙に知られている。

 そもそも欲望の大小は、欠乏の相対的な大小によって左右されるものであり、そこに不動の絶対値が設定されていると考えるのは謬見に他ならない。極度に空腹の人間ならば、どんなに質素な食事であっても大きな快楽を経験することが出来る。それは彼の欲望の基準が縮約されている為である。満ち足りた人間が殊更に贅沢な食事を求めるのは、贅沢な食事そのものが絶対的な快楽を約束するからではなく、そうでなければ欠乏の解消としての享楽的過程を経験することが出来ないからである。

 自己充足という考え方は、欠乏の定義を縮小し、理想と現実との断層を成る可く塞いでおこうという方針を意味している。同時にエピクロス先生は、享楽的過程よりも無風の快楽へ心理的重点を移行すべきであることを繰り返し強調しておられる。充足の過程に固執して新たな享楽を欲するのではなく、飽く迄も充足の境地そのものを重んじて大切に取り扱うようにと勧告しておられるのである。充足が最も肝腎であるならば、欲望の大小や欠乏の性質は副次的な問題に過ぎない。また、充足の基準を下げることは、必然的に欠乏の基準を下げることに帰着し、従って心身の苦しみの生じる蓋然性を抑制することに繋がる。こうした経緯を煎じ詰めれば「少欲知足」の一語に要約されるだろう。欲望の衰微は、必然的に幸福の増大を意味する。従って、貪婪な欲望を膨張させる資本主義的な社会制度が、人間の魂を慢性的な飢渇へ追い込むのは当然の帰結である。