サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

サラダ坊主の幸福論 12 セネカ先生のストイシズム(四)

 引き続き、古代ローマの高名な政治家であり、ストア派の優れた哲人でもあったセネカ先生の倫理学的知見に就いて検討を進める。

 われわれは、外見が見栄えのするものではなく、純粋で、安定し、隠れて見えない部分ほど美しさを増す善きものを追求しよう。それを掘り出そうではないか。それは決して遠くかけ離れたところにあるのではない。見つけられる。必要なのは、ただ、どこに手を差し伸べればよいのかを知ることだけである。だが、現実は、あたかも闇の中を行くがごとく、われわれは、手に入れたいと願う当のものに突き当たりながら、そうとも知らず、そのそばを通り過ぎて行くのである。(「幸福な生について」『生の短さについて』岩波文庫 p.138)

 他人の言行から著しい影響を蒙り、絶えず偶発的な事件に導かれて、頻繁に生活の方針を革め続ける浮薄な生き方を、セネカ先生は厳しく難詰しておられる。自己の外部に幸福の根拠を探し求める他律的な生き方は、先生の倫理学における根幹的な要諦に反しているのである。生の価値の源泉を外部に求めるからこそ、我々は世界に対して受動的な姿勢を堅持することになり、結果として、他人の思惑を忖度して阿諛追従に奔走したり、或いは逆に他人の不快な行状を口を極めて痛罵したり弾劾したりする他者志向的な生活に忙殺されることとなる。また、外部に幸福の根拠や源泉を求める姿勢は必然的に、堅牢な幸福の建設に根本的な障碍を抱えることに帰着する。何故なら、外部の出来事の過半は、我々の個人的な意図や欲望とは無関係に、つまり我々の主観的な心情を全く酌量することなく、複雑な必然性の鎖に操られて推移していくものだからである。世界は我々の個人的な幸福を保全する為に存在している訳ではない。従って、世界という一つの複雑な綜合的体系に向かって常住の慈悲を期待し、確信するのは無益な願望に過ぎない。多くの人間は、こうした無益な願望に支配されて、厖大な時間と労力を空費し、求めていた幸福の劣化した模造品ばかりを掴まされて疲労困憊している。先生は、そのような境涯から脱却することを断固として勧めておられる。

 したがって、幸福な生とはみずからの自然(の本性)に合致した生のことであり、その生を手に入れるには、精神が、第一に健全であり、その健全さを永続的に保持し続ける精神であること、次には勇敢で情熱的な精神であること、さらに見事なまでに忍耐強く、時々の状況に適応し、己の肉体と、肉体に関わることに気を配りながらも過度に神経質になることなく、また、生を構築するその他の事物に関心を寄せながらも、そのどれ一つをも礼賛することなく、自然の賜物を、それに隷属するのではなく、用に供する心構えでいる精神であること以外に道はない。付言するまでもなく、(そのような精神であれば)われわれを悩ませたり恐れさせたりするものは払拭され、そのあとに続いて永続的な心の平静と自由が訪れることは了解できるであろう。なぜなら、快楽と………瑣末で脆弱なもの、そして〈まさにその破廉恥さによって有害なもの〉は消滅し、計り知れないほど大きく、不動にして、安定した喜悦が、さらには精神の平穏と調和と、温厚さをともなった高邁さとがそれに取って代わるからである。獣的な粗暴さの由って来る所以は、おしなべて(精神の)弱さなのである。(「幸福な生について」『生の短さについて』岩波文庫 pp.139-140)

 この一節は、セネカ先生の信奉する倫理学的な要諦の核心に触れている。幸福を専ら理智的で主観的なものとして遇する考え方は、以前に取り扱ったエピクロス先生の幸福論的見識とも共通している。先生は幸福の根拠を自己の外部に求める態度に与せず、貪婪な享楽の魅惑に欺かれて日夜繁忙な生活に奮迅する愚かしい人々の振舞いの原因を、精神の脆弱性の裡に見出している。一般的で通俗的な偏見とは異なり、所謂「獣的な粗暴さ」は果敢な心意気や力強い精神の脈動から生み出されるものではない。それは寧ろ自己の内部に生の根拠を保持する辛抱強い姿勢を貫くことの出来ない精神的な弱さの裡に淵源を有する。我々が如何なる物質的所有に恵まれているか、社会的名誉に鎧われているか、といった問題は、我々の幸福の本質的な形成には聊かも寄与しない。それは偶然の導きによって不定期に授与される脆弱な仮寓に過ぎず、財産や名誉が我々の存在の根幹を形成することは有り得ない。単なる運命の恵みに依存して、恰かもそれを自己の本質であるかのように看做すことは、巷間に有り触れているが故に深刻で度し難い謬見である。幸福の本質は我々の主観的な精神、しかも普遍的な規約によって整理され正された精神を揺るがぬ基盤としている。幸福の根拠を外在的な他者、それは豊かな財産でも他人の恩顧でも美食や美酒でも何でも構わないが、そういった客体の裡に求める態度は、自己の主権を客体に譲渡し、自分ではないものの奴隷として生きることを含意する。そうではなく、幸福を感じるか否かは、専ら我々の精神の健全で倫理的な性質の多寡によって規定される。精神を如何にして健全化し、恒常的な平静を保ち、外部の事象に由来する諸々の影響を最小限に食い止め、苦悩や恐怖を迅速に排除するか、という問題が、我々にとっては最も切実な事案なのである。その為には、外在的な事物によって惑わされず、それらによって支配されたり制約されたりすることを断固として望まず、生きることの基盤を専ら自己の内部に形作ることが肝要である。言い換えれば、運命に翻弄されない堅固な自己を構築することが幸福の源泉の掘削に他ならないのである。

生の短さについて 他2篇 (岩波文庫)

生の短さについて 他2篇 (岩波文庫)

  • 作者:セネカ
  • 発売日: 2010/03/17
  • メディア: 文庫