サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

「逸脱」の倫理 三島由紀夫「偉大な姉妹」 3

 引き続き、三島由紀夫の短篇小説「偉大な姉妹」(『ラディゲの死』新潮文庫)に就いて書く。

 春の雪がちらほら降って来る朝、又ぞろ紋付に着かえて出かけようとする浅子の素振は、さすがに異様な感じを皆に与えた。勝子は見舞金をもって学生監の家を訪れ、この清廉潔白な英雄に金を突返されて以来、屈辱がもたらした得体のしれない熱を出して床についていた。父親に外出禁止を喰った興造は終日ベッドに寝そべってエロ雑誌を読んでいる。彼は放火の夢想に酔った。この少年は自分のした行為について、自分だけが空白のまま残されているのに業を煮やしていたのである。あの短刀が抜かれたとき、たしかに行為は彼のものだった。しかし忽ち行為は彼の手を離れ、彼を置いてき堀にして飛び翔った。もし罪というものがあるなら、それは罪の行為が飛び去ったあとの真白な空白にすぎぬだろう。罪ほど清浄な観念はないだろう。……退学処分か停学処分かで学校当局は揉めているらしかった。興造は今度こそ自分の家と麻布の家に火をけてやろうと己れに誓ったが、燐寸でシーツの端をもやしてみると、その小さい焦げ跡がすぐさま彼を得体のしれない恐怖に引戻した。興造は悪戯ができなくなっている自分に戦慄した。不透明な憂鬱な事務的な一生を、はてしのない廊下の奥をのぞくようにのぞいて見て戦慄した。『僕はこれから生涯行為と無縁になる』と故しれぬ予感に搏たれて思ったのである。(「偉大な姉妹」『ラディゲの死』新潮文庫 p.256)

 三島が声高に、不可視のアンダーラインを引いて「行為」という単語を強調するとき、そこには特別な含意が添えられていると看做すべきである。彼の重んじる「行為」という観念は、単なる種々の行動を指すものではなく、もっと悲劇的で刹那的な、世界全体の相貌を一瞬で急変させるような英雄的行為を暗示している。興造が握り締めた短刀で学生監の「弾力のない頬」を突発的に斬り裂いたとき、世界は劇的な変貌を遂げる筈であった。後戻りすることの出来ない絶対的な越境が完遂される筈であった。少年の慢性的な不満と飢渇はそのとき、悲惨な宿命の殺到を通じて一挙に癒されると思われた。しかし、結論として出現した事態は、そのような英雄的光輝に抱擁されていただろうか? 興造は自分自身の犯した「罪」から疎外され、父親から言い渡された外出禁止の判決に従って私室に逼塞するだけの退屈で凡庸な時間の裡に埋没している。それは短刀を俄かに一閃させた瞬間に興造が期待した世界のラディカルな変貌とは無縁の状況であり、極限まで高められた「悲劇的な盈溢」は小動もせずに従来の単調な閉鎖性を守り続けたのである。罪悪に依拠して眼前の風景を一挙に更新しようとする興造の闇雲な蛮勇は、無益な結論に帰着した。その事実が彼に齎す絶望は恐ろしく深甚である。この絶望は、空襲によって金閣と共に焼亡することを夢見ながら、敗戦を迎えて空虚な戦後的秩序に、つまり画一的で永続的な日常性の裡に生き延びてしまった「金閣寺」の溝口が懐いた怨嗟と通底している。英雄的で悲劇的な破局を待望しながら、遂に望みを叶えられず、果てしない日常の曠野へ回帰するという一連の論理的構成は、三島由紀夫という作家の魂に焼き付いた宿命的な物語である。彼は所与の世界の外部へ暴力的な仕方で脱出することに強烈な憧憬と欲望を懐いている。しかし、世界は意想外の堅牢な外貌を保って、三島の儚い願いを冷笑し、無慈悲に峻拒するのである。興造は革命に失敗し、否応なしに「不透明な憂鬱な事務的な一生」へ引き摺り込まれていく己の将来を予覚して戦慄する。この「戦慄」は、作者の内在的な不安の鮮明な転写であるように思われる。如何なる劇的な革命も有り得ないのではないか、この退屈で頑丈な「平和」は如何なる災厄にも屈せずに生き永らえて、精神的な窒息の症状は決して改善されず、ただ静かな老衰の深まりだけが約束されているのではないか、如何なる栄誉とも悲劇とも無縁の、日常そのものの無意味な「死」が到来し、結局「悲劇的な盈溢」は、その絶妙な均衡を失わずに未来永劫、保たれていくのではないか、という不安が、作者の胸底を重苦しく塞ぎ、隅々まで領していたのではないか。

 同時に、こうした性質の奇態な不安と絶望は、興造の祖母である浅子の裡にも抜き難く蟠っているのではないかと感じられる。

 彼は祖母を自分の暗い魂の陽画のようなものだと考えたが、戸外の光に盲いている少年期の瞳孔は、自分の内部を真暗にしか見たがらないものである。祖母をあの隠居部屋の牢獄から、興造は一つのほんの容易な行為の力で引き出した。彼はおぼえている。完全な公明正大な決断の調子で、彼が「友達の名誉のためです」と答えたとき、祖母の目がどんなに耀やいたかを。祖母がどういう手段でかはしれないが、今度は彼を牢獄から救い出そうと心肝を砕いていることを、彼はそれとなく察していた。あんな大きな図体の動静がわからない父母や兄は、よほど自分の寸法にだけかまけている証拠であったが、興造は祖母が廊下や縁側をみしりみしりと音を立てて歩く跫音をきくだけで、彼女のおおよその心持が呑み込めたのである。(「偉大な姉妹」『ラディゲの死』新潮文庫 pp.256-257)

 恐らく浅子の眼が「耀やいた」のは、興造の犯した罪悪の為に、彼女自身の「隠居部屋の牢獄」における単調な蟄居の日々が急激で画期的な変貌を遂げると信じられたからであろうと思われる。時間の流れと完全に一致した純然たる「存在」の様態を逃れて、彼女は時ならぬ椿事の為に立ち上がることを決意する。それは騒乱への幼稚な期待、重苦しく退屈な日常の裂け目に対する期待の産物である。彼女もまた、愛しい孫と同様に「悲劇的な盈溢」の致命的な氾濫を待ち望んでいたのだ。けれども、彼女が英雄的で勇敢で高潔な行為と信じた学校当局への直談判は却って裏目に出て、良造の周到な裏工作を途絶させる原因となり、今まで以上に厳格な蟄居を命ぜられる結果を招く。失望した浅子は姉と共に出奔し、行方を晦ませる。それは悲劇的な浪漫主義の惨めな敗北の宿命を示唆しているのだろうか。それとも作者は浅子の失踪を通じて、決して消滅することのない度し難い浪漫主義の不屈の生命力を、不穏な残響のように象徴してみせたのだろうか。

ラディゲの死 (新潮文庫)