サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

「逸脱」の倫理 三島由紀夫「偉大な姉妹」 2

 引き続き、三島由紀夫の短篇小説「偉大な姉妹」(『ラディゲの死』新潮文庫)に就いて書く。

 おのが野心に名前を与えるために興造は苦しんでいた。彼が富を考える。すると学校門前の、小さなとりすました小町娘がいる菓子屋の、その許多ここだの鹿の子や桜餅や蒸菓子や水羊羹や求肥を、家つきの娘ごと買い占めると謂った思いつきしか浮ばない。彼が名声を考える。すると声に自信があるのでレコード歌手になろうと謂った程度のことを考える。……しかし、歌手になるにも何やかや面倒くさい修行が要ることに思い及ぶと、それだけで志は萎えてしまう。

 この少年に精力的な外見を与えているものは彼の懶惰だったのである。そのせり出した額の下にはいつも不遜な考えが渦巻いていたが、それは楽想になるでもなく詩想になるでもなかった。ほかのあらゆるものを軽蔑するように彼は鍛錬・練習・修行のたぐいを軽蔑した。ある日、黙って家を出て一人で富士登山を決行して家人を愕かせようとしたことがある。しかし駅まで行って汽車の切符売場に五六人の行列がつながっているのを見ると、俄かに面倒になって引返した。(「偉大な姉妹」『ラディゲの死』新潮文庫 pp.223-224)

 浅子が格別の嘱望を寄せる孫の興造は極めて叛逆的な気質の若者として描き出されている。けれども、興造が総身から放射している異様な精力は専ら「彼の懶惰」が源泉であると作者は丁寧に注記している。彼は何か特別で鮮明な理想の為に、異様な反骨の気構えを漲らせている訳ではない。明確な計画に基づいて、現実の社会が抱え込んでいる夥しい矛盾や障礙に理論的な不満を募らせている訳でもない。要するに彼は既存の体制や道徳的な因習に適合する為の努力を完全に軽侮し、忌み嫌っているのである。彼の「不遜な考え」は、そもそも極めて貧困な想像力の制約を蒙っており、凡庸な着想の浮薄な移ろいに過ぎない。遼遠たる未来を見通して営々たる労役を積み重ね、一歩ずつ理想の実現に向かって着実な前進を続けるといった類の建設的な生活は、興造の人格には決して馴染まない。それならば、彼は単なる愚かしい怠慢の患者に過ぎないのだろうか? そんな興造に「偉大」の徴候を感知する浅子の熟練した嗅覚は、恣意的な妄想や単純な謬見に過ぎないのだろうか? 彼の意志は薄弱であり、肯定的で積極的な挑戦や格闘には結び付かない。その意味では、彼は極めて内面的な人種であると言えるかも知れない。肉体的で現実的な行動の実態が、次々に脳裡を駆け巡る軽薄な想念との間に、具体的な聯関を有していないのである。しかも、彼の想像力は痩せ衰えた凡庸な代物に過ぎない。そういう人間に「偉大」の反映や萌芽を見出すのは過度な依怙贔屓に過ぎないのではないか?

 十七歳の興造はすでに童貞ではなかった。彼はリンカーンという渾名があったが、これは正直の別名ではない。輪姦の一グループがあって最年少の興造がグループの名を冠せられたのである。戦後の青少年の性生活に関する無智は、今なお深く広いので、故らな註釈を加えなければならないが、この輪姦のグループは不良の集団でなくてむしろ科学的な会合だったのである。五人のうち三人は勤勉な医学生であり、その一人は外科、一人は産婦人科を専攻していた。あとの一人は興造、一人は同級の松永である。つまり二人の新制高校一年生が実験の助手に招聘されたのである。女は多くダンスホールやブロマイド屋や汁粉屋で釣ることができたが、産婦人科の学生が予め検診し、しかも落第した女のうちで捨てがたいものには、無料で特効薬の注射を施した。注射液は学校の附属病院から、かねてわたりをつけてある看護婦によって無代で搬出された。(「偉大な姉妹」『ラディゲの死』新潮文庫 pp.224-225)

 「午後の曳航」で堕落した英雄を処刑した少年たち、或いは「殉教」に登場する残虐な少年たちは、通俗的な意味で「不良」ではない。三島の描く少年たちは皆、秀才であったり名家の出身であったり、社会的には恵まれた階級に属する知性的な悪人の風貌を備えている。怜悧な詐欺師のように、美しい仮面で自らの本性を隠蔽することに熟達している。彼らの積み重ねる罪悪は、欲望の単純な暴発とは異質であり、抑え難い貪婪な要求が不幸にも律法の網目を潜り抜けたという偶発的な事象ではない。三島の筆鋒が造形する聡明な少年たちの肖像は、或る潔癖な道徳的理念に燦然と照らし出されている。卑俗な日常に埋没する大人たちの生活を「堕落の過程」と看做す、その奇態な道徳的理念は、彼らの犯す悪事に殆ど宗教的な意図を忍び込ませている。しかし、それは彼らが永遠の少年に憧れているということを意味するものではない。寧ろ彼らは無力な子供として扱われることに堪え難い嫌悪を禁じ得ない。日常的な幸福の永遠を信じて疑わない大人たちの「堕落」が容認出来ないのだ。彼らは悲劇的な英雄に憧れ、それ以外の体制的な大人を悉く憎悪している。「英雄」への憧憬を扼殺することによって得られる「成熟」の価値を心底侮蔑しているのである。

 興造は月三回この衛生的な会合に列席して、女の肉体が一挙手一投足の労にすら値いしないと考えるにいたった。少年の柔軟な想像力が、この情景によって麻痺されたと考えてはならない。却って尚早な嫌悪と無刺戟は、彼を想像の快感へ追いやったのである。

 原子爆弾は永らく彼の想像の様式であった。正直のところ、彼は世界転覆を望んでいたのである。その手帖には一頁おきに順を追って「み」「ん」「な」「く」……と謂った平仮名が一字ずつ書かれている。この手帖を指さきで翻すと、「みんなくたばれ、みんな死ね、宇宙の塵になり果てろ」という乱暴な箴言が読まれるのである。(「偉大な姉妹」『ラディゲの死』新潮文庫 p.225)

 「世界転覆」という聊か幼稚にも感じられる理念は、三島の度し難い宿望の枢要を成すものである。傑作「金閣寺」において、鹿苑寺金閣と共に敵機の襲来を蒙って焼死する夢想に憑かれた若い寺僧が、如何に甘美な幸福へ溺れたかを想起してみるべきである。そして敗戦と共に復活した無限の日常的時間に向けられた劇しい憎悪を改めて脳裡に呼び覚ましてみるべきである。興造の発明した「乱暴な箴言」は、三島の遺した数多の作品の随所に基礎的な旋律として絶えず鳴り響いている。それは一体、何故なのか? 長々と生き続けることを醜怪な「堕落」と看做し、若く美しい状態で崇高な「大義」に見守られながら滅び去ることを何よりも強く希求する彼の倫理的な美意識は、如何なる源泉に根差しているのだろうか。来るべき滅亡の予覚が、生きることの根源的な負荷を軽減することは有り得る。何時でも死ねるという廉潔で虚無的な覚悟が、極端な相対主義を齎すことも理解出来る。しかし、三島は相対主義を愛さなかった。虚無的な自由に憧れていた訳でもなかった。寧ろ彼にとって「滅亡」の約束を欠いた「仏教的時間」は、堪え難い相対性の露骨な顕現を意味したのである。言い換えれば、彼は人生を一個の芸術的な「作品」のように捉えていたのではないか。加之、彼は倦怠を知らぬ精力的な芸術家として旺盛な制作に携わりながら、やがて根源的な飢渇に苛まれ、人生から吸い上げた諸々の材料を精錬して美しい「造花」を生み出す日々の代わりに、自分の所有する人生そのものを一個の「作品」として完結させることに意を注ぐようになったのではないか。そのように考えなければ、あの演劇的な自死の意図を掬することは困難であるように思われる。

 興造が現実の行為の大ていのものに不満であったのは、行為が結果を惹き起す遅さとその結果の退屈な妥当さであった。商品交換のごときはその代表的なものである。学校ではやっている教室内の闇取引、禁制物資の金あるいは別の禁制物資との交換にも、興造は食指を動かさない。反復によって習熟するような行為は、何によらず彼には苦手であった。

 前にも云ったように、富や名声に関する彼の想像力は凡庸だったが、自分が現実の行為に無力であるという意識が、この種の想像力を弱めたにちがいない。どこかに自分の役割がある。どこかに自分に適した行為が存在する。手を拱いてこれを待たねばならぬことが、興造の不満の全部であった。それまでは勉強もせず運動もせず本も読まずに、悪戯一本でつないでゆくほかはない。(「偉大な姉妹」『ラディゲの死』新潮文庫 pp.225-226

 興造の「懶惰」と「行為における無力」とは、何れが原因であり結果であるのか今一つ判然としない。恐らく、彼は極端に性急な人間であり、一つ一つの行為が現実に及ぼす影響の緩慢な進捗に堪え難い倦怠を覚えずにはいられない性格なのだろうと思われる。彼は現実の急進的で劇的な変容を望んでいる。例えば漸進的で局所的な衰弱ではなく、世界の全体が一瞬で、一斉に破滅するような事態を、興造は待ち望んでいるのである。けれども実際には、あらゆる行為は現実の深層へ波及するのに極めて莫大な時間の経過を要する。その苛立たしい反応の鈍さを堪え忍んで、劇的な解決の代わりに地道な改善の累積を愛さない限り、世界が現実的な変革を遂げる見込みは乏しいが、そうした不毛で無益に感じられる時間を、興造の性急な気質は断じて受け容れようとせず、それゆえに必然的な帰結として懶惰な生活を送らざるを得ないのである。直ぐに効果の顕在化しない行為、劇的で極端な結果を惹起しない行為には、彼は聊かも食指を動かさない。そのような人間が「懶惰」の性状に縛られるのは自明の成り行きである。そして懶惰な人間は長期的で計画的な努力を通じて主体的に新たな人生、望ましい人生を開拓するという習慣を持たない為に、一つの夢想的な運命の到来に憧れるようになる。如何なる努力も要さずに、彼の人生を高揚させ、彼の比類無い天稟を証明するような特製の「行為」が顕現することを、興造は少年らしい純朴と横着に基づいて期待しているのである。彼の「反抗」は、無意味な「適合」の努力に対する潔癖で軽率な峻拒の表示である。外界の事物に対する定言的な嫌悪は、彼の夢想する「特製の行為」が具体的な輪郭や形態を備えていないことの反映である。彼は特権的な栄冠が何れ齎されることを信じているが、その栄冠の内実に就いては愚かしいほどに無智なのである。

 完全に準備されつくして只一滴の力の添加を待つばかりになった悲劇的な盈溢の上に、微笑を以て叩き下ろされるこの軽い黄金の槌のような行為を興造は夢みたのである。(「偉大な姉妹」『ラディゲの死』新潮文庫 p.227)

 言い換えれば興造にとって「行為」とは、一瞬の裡に凝縮された無時間的な閃光のようなものを意味しているのである。最小の力で最大の効果が発揮される、特権的な刹那が、彼の憧れる「行為」の内実である。営々たる長期的な労役と、極めて緩慢に推移する地味な成果は、彼の欲望の対象には該当しない。また、彼の希求する「行為」は専ら「様式」であって、具体的な中身や固有の関心を備えるものではない。「原子爆弾は永らく彼の想像の様式であった」という一文は、その点に就いて非常に示唆的な表現である。原子爆弾は一発限りであっても、一挙に世界の様相を変貌させ、あらゆるものを一瞬の裡に破滅させる。その強烈な威力は実質的に、我々の住まう社会を腕尽くで「悲劇的な盈溢」に書き換えてしまう。これに類する性質を備えた「行為」であるならば、その具体的な内実に関わらず、興造の漠然たる欲望を充たすことが出来る筈である。

「信子ちゃん、僕は君を愛しています、ハンドバッグを買ってあげましょうか」

 源造は真蒼になった。身を翻えして二階の書斎へ去った。そのあとで浅子の一言が、興造に多少の尊敬を呼びおこしたが、へえあの子にも女がいるの、あんな子にろくな女がつくわけはありませんよと言ったのである。信子は事実弟の目から見てどうにもいただけない女子大学生である。眼鏡をかけていて、毎週一回討論会に出席する。女と思想のとりあわせほど興褪めなものはない。珈琲茶碗で刺身を出されたようなものだ。兄がこの情事を隠しているのはこの女が醜いせいではなかろうか? さらにはまた、こんな醜い女に夢中になっていることを隠そうとしているのではあるまいか?……とりわけ後者の推測が興造を腹立たしくさせた。自分の愛を依然他人の判断で眺め、ゆくゆくは他人の判断に売り渡す下地を作っているにすぎない愛、この醜さのほうを兄は隠すべきではなかろうか? 興造はどうしても隠し立てすることのできない醜さというものを信じない点で兄に似ているのだった。この少年はまたこの少年の流儀で、自分の渾名の由来をなしている行為の醜さを認めないで、ただ羞恥からこれを隠しているのだと思っていた。(「偉大な姉妹」『ラディゲの死』新潮文庫 pp.229-230)

 興造は実兄である源造の生き方や思想を毛嫌いし、侮蔑している。享楽に関心を持たず、礼儀作法を遵守して、決して「自分の寸法」を逸脱することのないように細心の注意を払っている、この「色白の秀才」の実存的様式は、興造の対極に位置している。「原子爆弾」に象徴されるラディカルな変貌への執着を自己の中核に据えている興造の眼には、源造の丹念で堅実な生活の作法は如何にも無益な徒労のように映じているに違いない。興造が四囲の他者への叛逆的な悪意を常に絶やさず、寧ろ世間の思惑を露骨に裏切ってみせることに最大の関心を払っているのとは対蹠的に、源造は片時も「自分の寸法」を忘れない凡庸な両親を見習って、他人の眼に映る自分の肖像を可能な限り好ましいものに調整し続ける努力を断じて怠らない。通俗的な道徳、決して他人や社会を脅やかすことのない無害で安全な規範、それが源造という秀才の信奉する実存的な要諦である。常に他者の視線に配慮し、既成の社会に相応しい自己の構築に明け暮れる地道な精励、それが作中にて「偉大」の対義語として扱われていることは論を俟たない。

 歌舞伎役者の顔こそ偉大でなければならない。大首物おおくびものの役者絵は、悉く奇怪な偉大さを持った顔を描いている。その偉大さには一種の不均衡と過剰がある。拡大された感情、誇張された悲哀を包むその輪廓は、均斉を保とうがためにこの悲哀や歓喜の内容に戦いを挑んでいる。美の伝達力として重んぜられたこの偉大さは、歌舞伎が考えたような美の必然的な形式なのである。そこでは美と偉大の結婚は世にも自然であった。美が一個の犠牲の観念であり、偉大が一個の宗教的観念となることによって、この婚姻が成立った。大首物の錦絵の顔は、偉大に蝕まれた美のあらわな病患を語っている。(「偉大な姉妹」『ラディゲの死』新潮文庫 p.233)

 浅子、或いは三島の考えでは、偉大な人間は必ず「自分の寸法」を逸脱して「一種の不均衡と過剰」を抱え込む宿命に支配されている。日頃、堅実な社会的生活を維持する為に注意深く抑制されている諸々の劇しい情動は、例えば演劇的な世界においては寧ろ深刻な強調の対象に据えられている。三島が抑制的な日常性、単調で永続的な日常性を嫌悪していたことは周知の事実である。偉大であるということは、言い換えれば社会的な日常性の制約を衝き破って炎上する激越な情念に殉ずることに等しい。「一種の不均衡と過剰」は、このような情熱への殉教を貫く為に求められる必然的な実存の様式である。夭折も滅亡も、あらゆる種類の陰惨な悲劇も、こうした情熱への殉教の鮮明な表現である。「偉大」と「逸脱」を許容しない社会は、不合理な情熱に総てを預けて直走る粗野な生き方を「愚昧」の名の下に峻拒し、断罪する。情熱的であることは愚の骨頂と看做され、嗤笑される。そのような世相に叛旗を翻すことが、戦後の社会における三島の主要な企図であったことは、彼自身の奇態な末期が明瞭に立証しているように思われる。

ラディゲの死 (新潮文庫)