サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

プラトン「国家」に関する覚書 13

 プラトンの対話篇『国家』(岩波文庫)に就いて書く。

 プラトンの縷説する「教育」の本義が、単なる外在的知識の蒐集ではなく、視線の「転向」に存することに就いては既に確認を終えた。彼はその具体的なプログラムとして、幾何学天文学の習得を挙げる。尤も、幾何学天文学それ自体が、彼の信じる教育の枢要を成している訳ではない。プラトンにとって最大の関心は「感覚的仮象を離れ、超越的実在に向かって上昇する」というプロセスの裡に存する。幾何学天文学が、可感的な図形や天体の観察に明け暮れるものに過ぎないのならば、それはプラトンの実存的関心を満足させるものとはならない。彼にとって、これらの学科は「実在」への導きの糸であり、飽く迄も個別の図形や天体は便宜的な手段であるに過ぎない。

 一切の感覚的認識から離脱した純然たる理性的思惟を樹立すること、これがプラトンの困難な宿願である。如何なる感覚的認識にも妨げられず、又それに依存することもなく、ただ理性の自己完結的な活動によって真理へ達すること、只管に「ロゴス」(logos)の自存的な運動だけを頼って事物の「実相」を究明すること、言い換えれば感覚的仮象に内在する普遍的な精髄へ到ること、それがプラトンの厖大な思索の赴く理想郷である。こうした真理への厳格な情熱が、如何なる心事に由来するのか、私には分からない。兎に角、プラトンが曖昧で不確定な認識に依拠することを劇しく嫌っていたであろうことが想像されるばかりだ。彼は複数の仮説が等価に扱われ、何れの認識も「真理」という絶対的な審級へ上昇することが承認されないような状況を、堪え難い「蒙昧」として排撃したくなる衝動を抑えられなかったのではないか。「真理」とは即ち「絶対的な正しさ」である。この世界には「絶対的な正しさ」が存在し得るという信仰が、プラトンの強靭で精緻な思索の成果を支えている。

 自己の感覚的認識を絶対化することは出来ない。自己の感覚的認識を単一の「真理」として認定することは狂人の振舞いである。何故なら、我々の感覚は個人によって異なり、たとえ同一の人間の内部にあっても、感覚の示す真実は絶えず変動するからである。プラトンにとって「真理」の概念は、如何なる変動も起こり得ない普遍的な真実を意味している。従って「真理」が時間的な生成の裡に存在すると考えることは不可能な帰結である。感覚的な認識、仮にそれが科学的な実証主義を通じて獲得された認識であったとしても、それが感覚以外の根拠を持たない限り、絶対的な「真理」として承認されることは有り得ない。言い換えれば、この世界の「真理」は「ロゴス」の裡に予め普遍的な仕方で内在しているのだ。だからこそ「想起説」という考え方が編み出されるのである。「真理」は人間の外部に存在するものではなく、感覚的証拠(それは別の言い方を用いるならば「客観的証拠」と呼ばれるべきだろう)を以て立証されるものでもない。こうした観点に立つならば、理性を純化すること、つまり理性から無数の感覚的謬見を悉く除去することが出来れば、真理は自ずと開示されるという結論に至る。プラトンが数学や天文学の習得を奨励するのは、知識の累積が「真理」を告示すると信じるからではない。重要なのは、それらの学科が純然たる理性の行使によって「真理」に到達すると看做されている点である。数学的な正しさは、数学の内部において、その自存的な論理の機能によって立証される。そのとき、感覚的な観察の成果が決定的な要件として用いられることはない。

 こうしたプラトンの思想は極めて神学的な性質を帯びている。何故なら、神学が対象とする「神」の実相を、我々は感覚的な証拠を用いて論じることが出来ないからだ。不可視の対象に就いて「真理」を求めるとき、我々は純然たる「ロゴス」以外の力に頼ることが出来ない。「ロゴス」の自存的な運動に身を任せる以外に、感覚的把握の及ばない事物に就いて議論を重ね、思索を深めることは不可能である。我々は感覚的な事実が辿るであろう現象的な継起を、ただ「ロゴス」の内在的な連鎖によって想像的に仮構する以外に術を持たないのである。

 「それでは、グラウコンよ」とぼくは言った、「いまやようやく、ここに本曲そのものが登場することになるのだ。この本曲を演奏するのは、哲学的な対話・問答にほかならない。それは思惟によって知られるものであるけれども、比喩的にこれを再現しようと思えば、先に述べた視覚の機能に比せられてよいだろう。すなわち、すでにして実物としての動物のほうへ、天空の星々のほうへ、そして最後には太陽そのもののほうへと、目を向けようとつとめるとわれわれが語った、あの段階がそれである。ちょうどそれと同じように、ひとが哲学的な対話・問答によって、いかなる感覚にも頼ることなく、ただ言論(理)を用いて、まさにそれぞれであるところのものへと前進しようとつとめ、最後にまさに〈善〉であるところのものそれ自体を、知性的思惟のはたらきだけによって直接把握するまで退転することがないならば、そのときひとは、思惟される世界(可知界)の究極に至ることになる。それは、先の場合にわれわれの比喩で語られた人が、目に見える世界(可視界)の究極に至るのと対応するわけだ」

 「ええ、まったくそのとおりです」と彼は言った。

 「ではどうかね、このような行程を、君は哲学的問答法(ディアレクティケー)と呼ばないだろうか?」(『国家』岩波文庫 pp.157-158)

 この「ディアレクティケー」が「ロゴス」の自存的な運動の過程であることは明白である。言い換えれば、プラトンにとって「ロゴス」とは生成的な現象とは無関係に自存する普遍的な認識の連鎖であり、従ってそれは絶対的な「真理」の眷属なのである。彼の知性的な野心は、感覚的な認識の介入を悉く排除した場合に、如何なる別種の「認識」が出現するか、という奇抜な着想に基づいている。「ロゴス」を純化したときに、如何なる「認識」が啓示されるのかという挑戦が、プラトンの独創性の淵源なのである。彼にとって「知識」とは、ロジカルな認識の成果だけを意味する概念である。感覚を通じて得られた認識は、それ自体では「知識」の名に値しない。況してや社会的常識や旧弊な慣習、曖昧な伝承、局所的な規範などは、聊かも「真理」の要件を満たさない。プラトンは決して無益な空理空論を語り、社会的現実からの気儘な遁走を図った訳ではない。それは彼が「理想的国家の建設」という極めて公共的な主題に対して尋常ならざる情熱を炎上させていることからも明らかである。彼が絶対的な「真理」に固執したのは、余りに雑駁で相対的な「真理」が巷間に濫立し、繁茂している為であろう。誰もが自分自身の素朴な個人的見解を無邪気に「真理」と看做して自若としている。自分自身の存在しか包摂し得ない狭隘な論理を「真理」と信じて疑いもしない。

 「友よ、法というものの関心事は、国のなかの一部の種族だけが特別に幸福になるということではないのであって、国全体のうちにあまねく幸福を行きわたらせることをこそ、法は工夫するものだということを、また忘れたね? 国民を説得や強制によって和合させ、めいめいが公共の福祉のために寄与することのできるような利益があれば、これをお互いに分かち合うようにさせるのが、法というものなのだ。法がみずから国の内に彼らのようなすぐれた人々をつくり出すのも、彼らを放任してめいめいの好むところへ向かわせるためではなく、法自身が国の団結のために彼らを使うということのためなのだ」(『国家』岩波文庫 pp.119-120)

 プラトンの信じる「真理」は、人々が後生大事に抱え込んでいる銘々の「真理」を破壊する効果を秘めている。何故なら、プラトンにとって「真理」は単一であり普遍的なものであり、従って如何なる例外も許容しない峻厳な性質を伴っているからだ。けれどもそれは、自分自身を「真理」の代弁者として神格化しようとする傲慢な衝動の顕れだと解釈して差し支えないものだろうか? 彼は自身の個人的な信条を絶対的な「真理」へ格上げする為に厖大な「詭弁」を弄したのであろうか? 私の考えでは、そうした裁定は「短見」の部類に属すると思われる。彼の見出した普遍的な「真理」は恐らく、彼自身の経験的な信条や定見さえも虐殺したのである。プラトンにとって「真理」は断じて属人的なものではない。「真理」はプラトンの開創ではなく、そもそも人類の存亡とは無関係に持続する絶対的な事実である。そうした超越的「実相」が、人間の感覚的な認識によって立証されるということは有り得ない。何故なら、人間の感覚は極めて属人的な認識の体系であるからだ。「真理が属人的なものであることを認めない」という原則は、プラトンの思惟を貫く倫理的な規約である。個人の相対的な特徴によって左右される「真理」は属人的な謬見に過ぎない。従って「真理」を把握する為には、属人的な感覚を排除し、あらゆる生成的な変化を免かれた手段に依拠する以外に途がない。

 「ロゴス」は普遍的な規則であり、万人に妥当する共通の「本質」として定立される。それだけが普遍的な「真理」を構築し得る唯一の方途である。感覚的な「仮象」を離れて「実在」へ赴こうとするプラトンの魂胆は、こうした「ロゴス」の徹底的な純化によって成し遂げられる。従って彼の論じる「教育」の本義は、個人の関心を「属人的なもの」から「公共的なもの」へ転轍させることに求められる。「ディアレクティケー」の技術は、人々の関心を属人的な正義から切り離し、普遍的な規約へ赴かせる。絶対的な「実在」への信仰は、自己の感覚的な事実を鵜呑みにしない禁欲的な知性の誕生と不可分なのである。

国家〈下〉 (岩波文庫 青 601-8)

国家〈下〉 (岩波文庫 青 601-8)