サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

Cahier(「配給品」の幸福)

古今東西を問わず、多くの人間にとって「幸福に生きる」という主題は、重要で切実な意義を帯びている。人間は無意味な生に堪えることが何よりも苦手で、現実に対する自動的な適応に安住する動物的な生存の形式から絶えず逸脱している。

 欲望を断ち切れば幸福が訪れる。既にあるものだけで満足し、これ以上の何かを欲しない。欲望の本質は欠如を埋め、不在を補いたいという衝迫であるから、「知足」の幸福に達する為には、夏の葉叢のように夥しく繁茂する煩悩を悉く除去せねばならない。そうやって雑草の刈り取られた庭のように、美しく整理の行き届いた夏の午下がりの閑寂な庭が、例えば三島由紀夫の「天人五衰」の掉尾に顕れる月修寺の静かな庭のように、寂然とした空虚な領域として胸に宿る。人はそれを解脱と呼ぶのだろうか。だが、そんな静寂が、動揺の欠如が、本当に人間の目指すべき幸福の実相なのだろうか?

 「老成の実際の空虚」と、坂口安吾は自伝的小説の一隅に書き付けた。合理的に考えることの価値は疑いを容れない。合理的に考えるならば、欲望の廃滅ほど合理的な選択肢はない。実際、世の中はどんどん合理的な規範に向かって傾斜しているように思われる。欲望の廃滅に向かって、社会的な規範は徐々に突き進んでいるように見える。野蛮で非合理な欲望に身を焦がすことの闘争的な価値は刻々と株価を下げ続けている。誰も買いたがらないのだ。手を伸ばせば火傷を負いそうな銘柄に見えるのだ。

 欲望の廃滅によって一身上の幸福を購おうとするストイシズム、これは極めて自閉的な発想に裏打ちされている。この境涯に留まる限り、人は退嬰の誹謗を免かれない。一歩間違えれば、この堅固な要塞はあらゆる諦観と絶望の吹き溜まりと化してしまう。眼前の現実から遊離して、一個の堅固な城砦に引き籠って、一切の葛藤から遠ざかり、他者との厄介で錯雑した関係を断ち切り、無風の幸福へ逼塞する。永久の蟄居、如何なる欲望にも希求にも煩わされない安定した謹慎の生活。それを幸福と呼ぶことに私は躊躇を覚える。戦うことを忘れた人間の、停滞した「凪」の時間。

 だからと言って私は、あらゆる瑣末な欲望の虜囚と化すことを、自分自身に向かって奨励している訳ではない。瑣末な欲望には、本質的で根源的な欲望が叶えられない場合の「代償」という性格が備わっている。非本質的な欲望と言い換えても構わない。自分自身に備わった根源的な欲望が満たされない為に、代わりの欲望で己の本心を欺くのだ。それさえ人間らしい生活の断面であるという事実に、私は全面的に同意するが、だからと言って、その狭苦しい頽廃に留まることを歓ぼうとは思わない。

 断念すること、それは確かに一つの適切な、いわば幸福な人生の「処方箋」であると言えるかも知れない。だが、その断念は本当に極限まで追求された欲望の敗残として与えられているだろうか? 最初から断念を選ぶことで、無用な煩いから遁走しようという臆病な魂胆の果実ではないのか? けれども、本当に厳密な意味で「欲望」が廃絶された状況であれば、最早人間に生きる意味などない。「知足」の幸福で、つまり与えられたもの以上の何かを探し求めることを無条件に断念するような類の幸福に依拠して、それで万事解決するのならば、人間が生まれてきた意味など何処に存在するだろう? 我々が戦うべき本来の相手は「欲望」ではなく「断念」であり「諦観」であり「絶望」ではないのか。

 「知足」は、欲望の規模を眼前の現実に合わせて縮約することである。欲望に基づいて現実の変革に挑む雄々しい敢闘の精神は、そこには存在しないし、寧ろ野蛮な情熱として意識的に排撃される。言い換えれば、あらゆる「高望み」を排することが、エピクロスからセネカに至る古代の賢人たちの提唱する倫理学的規範なのである。その効用を全面的に批難しようとは思わないが、例えばセネカ自身は、ローマ帝国の政治家として、欲望に塗れた権謀術数の渦中で生き死にした。彼が「知足」を説いたのは、つまり「欲望の制御」に就いて誠実な思考を捧げたのは、そうしなければ発狂してしまいかねないほど夥しい欲望の交錯する世界を脱却し得ない状況に封じ込められていたからである。彼が語ったのは、或る意味では「不可能な理想」である。彼は賢者の静謐な生活に憧れながら、欲望の蔓延する血腥い俗界を脱出し得なかった。彼は決して欲望からの遁走を実践しなかったのである。その矛盾は、哲学者の敗北の形態だと人は嗤笑するだろうか? しかし、そういう人間が語ったからこそ、逆説的に「知足」の哲学は或る具体的で普遍的な説得力を宿したのではないだろうか。

 セネカは一般の人々よりも遥かに濃密で過激な現実に直面しながら生きていた。彼の思想は、彼の行動や実存と必ずしも直結していない。彼の語った「不可能な夢想」を、彼自身の生活の裡に見出すことは不可能である。若しも彼が、苛烈な政治的現実から離れて、文字通り山川草木に埋もれる閑雅な隠者の生活を送りながら、「知足」の思想を説いたのならば、それは結局のところ「老成の実際の空虚」の端的な証拠であるに過ぎない。

 けれども、現代は「知足」の時代ではないか。資本主義が成熟し、不況が蔓延し、人々の純然たる物欲は随分と磨滅した。立身出世の欲望は委縮して、多くの若者は野心よりも安定した生活に期待を懐くようになった。「草食系」という言葉が耳に馴染み、未婚率は上昇を続け、生殖に対する欲望は衰弱する一方である。同時に一部の若者は古典的な「婚姻による幸福」を先取りして、安定した生活を確保することに余念がない。経済的理由によって婚姻も生殖も断念する人々も増えている。そもそも他者との関わりを忌み嫌う人々も増大を続け、「孤独死」や「引きこもり」という言葉が重要な社会的問題として認知されるようになった。

 「野心」の欠如が当然の如く蔓延しているからこそ、例えば我々はその満たされない代償を、テレビ画面の向こうの優秀なアスリートたちに投射して補っているのではないか。いや、それさえ望まない人々も少なからず存在しているかも知れない。「野心」とは金銭や権力に対する狡猾で粗野な執着のことではない。それは、その人が生涯を賭するに値すると信じられるような「欲望の対象」を持つことを意味している。我々は「野心」に殉じて様々な艱難に見舞われることを割に合わない労苦だと考え、自らの欲望を予め念入りに剪定することに躍起だ。言い換えれば、我々は極めて体制的で順応的な人間となりつつある。体制的な人間は、配給品だけで幸福になれる。自分で選び取ったり勝ち取ったりすることより、投げ与えられた餌で空腹を満たす生活に質実な歓びを覚えるのだ。そうした精神にとって「知足」の哲学は如何にも甘美な誘惑に満ちて見えるだろう。それは我々の退屈な生活を、退嬰的で臆病な精神を肯定する論理であるからだ。現状追認の思想として作用するからだ。

 開拓者の精神、それを我々は失うべきではない。与えられたものだけで満足し、他者の思惑や温情に縋って自己の人生を形成する奴隷的な作法を棄却しなければならない。無論、人間は無力な存在であるから、完全に奴隷的な性質を克服することは出来ないだろう。けれども、完璧な克服が不可能であることを理由に、挑戦よりも断念を好んで選択するのは怠惰な振舞いである。四囲に絶えず気配りし、相手の感情を読み取って共感によって相互に熱心に繋がり合う、愛すべき人格者だけが持て囃される時代は、要するに無力な善人を輩出するように形作られた時代である。反抗を知らない善人だけで構築された世界を、本当に「理想郷」だと思えるだろうか? 善良であることは美徳だ。しかし、無力な善人であることは、私にとっては愉悦ではなく屈辱である。善良であるがゆえに愛されるのならば、それはペット扱いされているのと同じことではないか。愛玩動物の幸福を目指して生きるのは、人間の頽廃である。例えばフェミニズムの思想は、女性を「愛玩動物の幸福」の呪縛から解放して、自由な選択の権利を授ける為の運動である。しかし無力な善人は、そんな果敢で華々しい闘争よりも、恐らくは他者から恙なく愛玩されることを望むだろう。赤ん坊のように潤沢な愛情に抱擁されて生きることを望む大人というのは、端的に言って不潔な存在ではないか。