サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

プラトン「饗宴」に関する覚書 1

 目下、絶賛繙読中のプラトンの著名な対話篇『饗宴』(光文社古典新訳文庫)に就いて、断片的な感想を認めておきたいと思います。

 この「饗宴」という対話篇は、プラトンの文業においては中期の部類に属する作品と考えられており、実際に初期の対話篇(このブログで取り上げた作品に限って例示するなら「ラケス」「ソクラテスの弁明」「プロタゴラス」など)とは聊か毛色の異なる作風に仕上がっています。或る特定の主題に就いて、ソクラテスが哲学的問答を通じて対話相手の有している素朴な通念を自己矛盾に陥らせ、総ての議論が一つの解決されないアポリアの明示に帰結して幕引きを迎えるという初期の定型的な方式は、ソクラテス自身が明確な学説を積極的に主張しないという規則に縛られていました。彼は「我々は何も真実を理解していないのだ」という認識を、対話を通じて白日の下に曝け出すことだけに専念しているように見えます。

 けれども「メノン」や「ゴルギアス」の辺りから、恐らくは作者であるプラトン自身の懐いていると思しき哲学的考想が、ソクラテスの口を借りて積極的に主張されるように、対話篇の作風は変化を始めます。初期対話篇におけるソクラテスの役目は相手の論理的矛盾を指摘することに限られていましたが、例えば「メノン」においてはソクラテスは有名な「想起」(アナムネーシス)の学説に就いて語りますし、「ゴルギアス」においては「美徳」や「弁論術」に関する相手の学説に就いて積極的な論駁を展開して、場合によっては自ら堂々たる長広舌を揮っています。

 「饗宴」は、そうした変化の延長線上に顕れた作品であり、その構成も初期対話篇とは異質な仕組みと形式を備えています。「饗宴」は対話篇であるというよりも、個性豊かな複数の登場人物たちによる演説の華やかな博覧会の記録といった定義に相応しい作品であるように感じられます。その中で最も中心的な主題として措定されているのは「エロス」(eros)という概念です。この概念を一言で解説するのは容易な所業ではありませんが、敢えて大雑把な要約を試みるならば、端的に「欲望」と称するのが最も妥当であろうと思われます。

 「それでは、エロスがそのなにかを欲し求めるのは、それを所有しているときだろうか、それとも、所有していないときだろうか?」

 「所有していないときでしょう。おそらくですが」とアガトンは答えた。

 「ちょっと考えてほしいのだが」とソクラテスは言った。「おそらくではなく、必然的にそうなのではあるまいか――欲するものがなにかを欲するのは、それが欠けているからであり、欠けていないなら欲しなどしないということは。アガトン、ぼくには、このことが驚くほど必然的なことに思えるのだ。きみはどうだろうか?」(『饗宴』光文社古典新訳文庫 p.114)

 少なくともこうした記述の局面においては、明らかに「エロス」という概念は「欲望」の性質を理解する為の「補助線」の役割を担っているように見受けられます。欲望は、何らかの欠乏や不足を埋め合わせることを望む衝動です。総てが充足しているのならば、原理的には、欲望の活動が生じることは有り得ません。尚且つソクラテスは、人間が既に所有しているものを欲しがる場合を例に挙げて、それが永遠の充足に対する願望を、つまり既に獲得したものを永遠に自らの所有の裡に留めておき、決して喪失せずに済ませたいと願う欲望の反映であることを示します。更にそこから派生して、エロスを巡る議論は、人間の欲望が根底的に「不死」を希求するものであることを主張する段階に至ります。

 不死を願うということ、つまり永遠に生命体としての活動を維持したいと願うこと、これは客観的に考えるならば不可能な欲望です。しかも、この欲望は、一般的な意味での欲求と異なり、永久に満たされることがありません。永遠の存在であることが確証される為には、我々は永遠という時間的極北の「突端」に立つ必要がありますが、永遠という観念は、理論的には決して「突端」という概念を保有することが出来ないからです。言い換えれば「永遠」とは「時間」の喪失された状態であり、始原と終焉という二つの「突端」を欠いた状態のことです。つまり、永遠とは無限に持続する時間を意味するというより、時間という枠組みそのものの根底的な廃絶を意味しているのです。

 時間の超越、これがあらゆる生命体の裡に宿る究極の野望です。これは「欠如=充足」という通常の欲望の循環とは異質な次元に属する、決して充たされることのない根源的な志向性のようなものであり、あらゆる通常の欲望が従属する超越的理念と呼び得るものです。このような観点から眺めれば、男女が子を生すことも、自ら命を絶つことも、相互に外見は対蹠的でありながらも、永遠を願い、時間の超越を図るという意味では同じ志向性を有していると言えます。例えば三島由紀夫が終生憧れを懐き続けた「夭折」という観念もまた、時間の流れに伴う変化への究極的な抵抗の手段として解釈されるべきでしょう。同時に、我々人間の欲望が無際限であるのは、それが時間の超越という要素を根底において含んでいるからであり、若しも我々が死の観念を持たず、従って時間の超越という問題を意識的に捉えずに済むのならば、我々は現在という瞬間的領域に常住して、その都度の欲望の解消だけを念頭に置いておけば何の不満も懐かずに生きて死ぬことが可能になるでしょう。換言すれば、我々は時間が有限であることを知っている生き物です。それゆえに、あらゆる欲望が「充足」の状態に原理的に到達し得なくなっているのです。この瞬間の「充足」は、未来永劫に亘る「充足」を全く保証しません。現前する充足の状態の裡に我々が常住し得ないのは、こうした未来における欠如の懸念を振り払うことが原理的に不可能である為です。

 永遠を願い続ける限り、我々の欲望は自動的に「潜在的欠乏」を含有せざるを得ません。霊魂の不滅を説く総ての宗教的信仰が、人類の精神に救済の恩寵を齎し得るのは、それが我々の存在の永遠を、つまり時間的超越を何らかの理由で約束するものであるからです。「彼岸」における救済の思想は、地上の生活における我々の有限性に対する恐懼を解除する効果を持ちます。此岸における不幸も廃滅も、彼岸における救済という信仰によって、その否定的な意味を扼殺されるからです。己の死を予期しない動物、己の不滅を疑う力を持たない動物に、宗教的救済という精神的な制度は無用なのです。

 一方、例えばエピクロスの思想は、そもそも「永遠」や「不滅」に対する欲望を否定すべきだという見解に立脚しています。「死はわれわれにとって何ものでもない、なぜなら、分解したものは感覚をもたない、しかるに、感覚をもたないものはわれわれにとって何ものでもないからである」(『教説と手紙』岩波文庫 p.75)というエピクロスの訓誡は、永遠の保証を衆生に信じさせることで、人間の最も根源的欲望に麻酔を効かせるような宗教的救済の要諦に正面から対立しています。永遠への欲望、不死への欲望、これが欲望の最も原初的で根源的な形態であることを、我々は理解する必要があります。簡単に言えば「死にたくない」という欲望、これが生命における欲望の究極的本質なのです。

饗宴 (光文社古典新訳文庫)

饗宴 (光文社古典新訳文庫)