サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

普遍的な善性に就いて

 「善」という概念は、倫理的な問題の範疇に属します。そして「倫理」という概念は本質的に「他者」の存在との関わりを巡る思考の過程で育まれるものです。他者の存在しない世界では、倫理という概念が重要な主題として人間の意識を占有することはないでしょう。けれども、この世界が原理的に「他者」の存在を含んでいることは明らかです。少なくとも、人間の精神は「自他」の弁別に関する機能を必ず内包しています。

 人間は欲望を有する生き物であり、欲望は原則として「欠如」と「充足」との絶えざる循環として構成されています。こうした欲望の循環は、個体の輪郭によって相互に隔てられており、自他の欲望に関する利害が対立することは家常茶飯の出来事です。この欲望に関する矛盾を解決する為に「善」という協約的な概念が案出されたのだろうと私は考えます。数学における「最大公約数」の概念に擬えても良いかも知れません。

 「善」が協約的な概念であるということは、その内実を規定する根拠が、その「善」の内実に関与する成員の総意に置かれているということを直ちに意味します。従って、協約的な概念としての「善」は不可避的に、その協約を取り結ぶ人々の顔触れや範囲の変動に応じて、具体的な規約の中身を改訂されざるを得ません。その意味では、明らかに「善」という概念は、相対的な「結び目」のような性質を帯びています。協約に関わる人々の変化に基づいて条文が改訂される以上は、協約的概念としての「善」は、時間的にも空間的にも一義的で絶対的な規定を維持し得ないのです。

 しかしながら「善」が協約的な性質を有するとしても、つまり根本的な相対性に支配されているのだとしても、そうした事実は決して普遍的な「善」への志向性を蔑ろにするものではありません。「善」の概念が、そもそも他者との倫理的関係の肯定的な変化を求める過程で編み出されたものである以上、我々は「善」の協約の及ぶ範囲を成る可く拡張することによって、普遍性への志向を発達させていかなければなりません。そうした協約の普遍化に関わる困難は、拡張された協約的善性の中身が、局所的な協約における善性の中身との背馳を惹起する場合に、極めて鮮明な問題として焦点化します。国家的な次元における善性と、個人の私的な領域における善性との間に構造的な対立が生じることは、避け難い成り行きです。両者の幸福な合致に恵まれ続ける人は極めて稀な存在でしょう。しかも、或る一つの関係性における成員の顔触れは絶えず変動を繰り返していきますし、それらの関係性が包摂されている客観的な情況も、様々な要素に影響されて頻繁に更新されていきます。その都度、善性の定義は綿密に改訂されていかねばなりません。つまり、善性という概念の内訳に就いて、最終的且つ絶対的な合意が成立することは原理的に有り得ないのです。

 そもそも、善性という概念はどうやって生み出されるのでしょうか? それは根源的には、生命体という一つのシステムの基層に存在している特定の方向性に根差しているのではないかと推測されます。端的に言って生命体の原理は、自己の生命活動の存続を志向しています。個体的な次元においても類的な次元においても、生命体は必ず「成長」と「繁殖」を目指します。それは人間の感情や理性といった意識的な次元よりも遥かに深い、殆ど肉体的と称して差し支えない基底的な次元において、具体的な生理学的機構を通じて表現されています。感覚的な快苦の原理は、こうした根本的な衝動を保持し、更に発展させていく為の便宜的な手段として形成されています。我々の意識が、様々な肉体的快楽を感じるように整備されているのは、そして快楽が「報酬」としての効果を備えて我々の存在を特定の行為へ嚮導するように設定されているのは、快楽を齎す源泉として選択された行為が、生命体の「成長」と「繁殖」への志向性に資するものであるからです。

 恐らく動物的な本能の世界においては、こうした快楽の原理は、生命体における根源的な善性の指し示すものと完全に重なり合っていると考えられます。本能に従い、快苦の原理に従属することが、善性の追求と完璧に符合している場合には、我々の存在の内部に「理性」という厄介な制度が装填される必要は生じません。従って倫理的な省察や科学的な知見が発明され、鍛錬される可能性も形成されません。

 けれども、そうした志向性の体系が原始的であればあるほど、その生命体が外界の変化に適応して生き残ることは困難の度合を強めます。肉体の内部に張り巡らされた快苦の神経的規則に基づいて、半ば自動的に行動を決定するだけでは、従来の本能が想定する範囲内の変化にしか適応することは出来ません。知性の発達は、そうした生命体の適応に関する「可動域」を大幅に拡張する効果を有しています。感覚的な快苦に基づいた判断だけに依拠する限り、我々の実存は快苦を越えた「善性的判断」を駆使して、適応の可動域を新たに押し広げていくことが出来ません。理性が本能を抑圧するのは、そうした抑圧が結果として、我々の善性的判断の水準を高めるだろうと期待されるからです。同時にそれは、他者との社会的関係においても、善性的判断の高度化に寄与すると考えられます。若しも我々が原始的な本能に支配され、個体的な快楽の感覚だけに導かれて行動するのならば、他者との高度な協調を実現することは極めて困難になります。無論、動物の世界にも社会的な共生の仕組みは存在しますが、それを高度に拡張する為には発達した知性の関与が不可欠です。絶えず変動する善性の内容に関して、多角的な検討と改善を加える持続的な意志がなければ、我々は眼前の現実に巻き込まれて瞬く間に滅亡してしまうでしょう。知性の働きは、我々が生き残る確率を向上させます。知性の発達そのものが、善性的判断の深化を通じて、我々の生命の繁栄を齎すのです。そのように考えるならば、快楽への過剰な依存が奇態な倒錯を意味することは明瞭な事実として理解されるでしょう。