サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

サラダ坊主の幸福論 5 エピクロス先生の静謐な御意見(四)

 引き続き、エピクロス先生の此岸主義的な幸福論に就いて私的で地道な検討を進めたい。先生は「メノイケウス宛の手紙」の中で、人類の歴史とは切っても切れない不可分の関係にある「欲望」の種類に関して腑分けを試みておられる。

 つぎに熟考せねばならないのは、欲望のうち、或るものは自然的であり、他のものは無駄であり、自然的な欲望のうち、或るものは必須なものであるが、他のものはたんに自然的であるにすぎず、さらに必須な欲望のうち、或るものは幸福を得るために必須であり、或るものは肉体の煩いのないことのために必須であり、他のものは生きることそれ自身のために必須である、ということである。これらの欲望について迷うことのない省察が得られれば、それによって、われわれは、あらゆる選択と忌避とを、身体の健康と心境の平静とへ帰着させることができる、けだし、身体の健康と心境の平静こそが祝福ある生の目的だからである。なぜなら、この目的を達するために、つまり、苦しんだり恐怖をいだいたりすることのないために、われわれは全力を尽すのだからである。(「メノイケウス宛の手紙」『エピクロス――教説と手紙』岩波文庫 pp.69-70)

 この一節は、エピクロス先生の代名詞とも言える著名な概念「アタラクシア」(Ataraxia)に基づいた幸福論の要旨として享受することが出来る。先生は欲望の放縦で無際限な充足を歓ばないと共に、欲望の完全な廃滅の必要も認めていない。先生は極論を好まず、非現実的な理想主義にも賛意を示さない。飽く迄も沈着で穏健な口調で、人間の欲望は「自然性」と「必要性」の基準に照らして幾つかの範疇に分類される、この分類に就いて精確な理解を得ることが「アタラクシア」の幸福へ帰着する便よすがとなると述べておられるだけである。言い換えれば、ここで問題とされているのは「欲望」の多様な種類と銘々の性質を粗雑な仕方で混同する愚かしさなのだ。「哲学の研究」が「霊魂の健康」へ結び付くという先生の幸福論の基礎的な方針は、この一節においても明瞭に示されている。正しい認識の獲得だけが、真に幸福な境涯を構築する唯一の手段であると、先生は定義しておられるのである。

 先生の論じる「必須の欲望」を規矩として、物事に関する適切な「選択と忌避」を実践すること、これは要するに無益な享楽を排することを含意しているが、だからと言って厳格な戒律の類に縛られた清浄な生活を想像して気鬱になる必要はない。先生は欲望全般に向かって執念深い敵愾心を燃え立たせている訳ではなく、飽く迄も穏健に、欲望の整理整頓を心掛けるようにと助言して下さっているのである。不要な欲望に追い立てられて心身の健康を毀損するような振舞いは、先生の幸福論の見地から眺めるならば明らかに悪徳であり、不幸以外の何物でもない。それによって得られる麻薬的な享楽は、劇しい苦痛と一体化しているからである。

 ひとたびこの目的が達せられると、霊魂の嵐は全くしずまる、そのときにはもはや、生きているものは、何かかれに欠乏しているものを探そうとして歩きまわる必要もなく、霊魂の善と身体の善とを完全に満たしてくれるようなものを何か別に探し求める必要もないのである。なぜなら、快が現に存しないために苦しんでいるときにこそ、われわれは快を必要とするのであり、〈苦しんでいないときには〉われわれはもはや快を必要としないからである。まさにこのゆえに、われわれは、快とは祝福ある生の始め(動機)であり終り(目的)である、と言うのである。というのは、われわれは、快を、第一の生まれながらの善と認めるのであり、快を出発点として、われわれは、すべての選択と忌避を始め、また、この感情(快)を規準としてすべての善を判断することによって、快へと立ち帰るからである。(「メノイケウス宛の手紙」『エピクロス――教説と手紙』岩波文庫 p.70)

 エピクロス先生の学説は歴史的に、幾度も悪しき「享楽主義」(hedonism)との批難を蒙ってきた。確かに精読を怠るならば、上記の議論は何よりも「快楽」の獲得を優先的に奨励しているように見える。しかし、注意深く読めば、先生が快楽の無際限で貪婪な追求を称揚していないことは直ぐに分かる。先生は欲望の整理整頓を勧告し、無意味な欲望に駆り立てられて虚しい彷徨を選ぶことのないようにと訓戒しておられる。先生の重視する快楽は、絶えざる飢渇を通じて希求される強烈な歓喜のようなものではなく、専ら「苦痛の排除」という消極的な仕方で示される性質の感情である。言い換えれば、快楽とはそれ自体で積極的に存在する固有の事物ではなく、飽く迄も「苦痛の存在しないこと」が快楽であると看做されているのである。それこそが「アタラクシア」という言葉の指し示す倫理的な境涯の内実である。従って「選択と忌避」は快楽の無際限な増大を規矩として行われるべきものではなく、ただ「苦痛の排除」という見地に限って進められるべきものである。つまり、一時的な享楽の為に甚大な苦痛や取り返しのつかない破滅が予期される場合には、我々は自己の貪婪な心性を抑制し、説得しなければならない。あらゆる種類の不幸な犠牲と代償を支払ってでも、享楽の経験を獲得しようと試みる態度が真のヘドニズムであるならば、エピクロス先生の教義は断じてヘドニズムとは合致しない。享楽主義者を意味する「エピキュリアン」(epicurean)という慣用句は明白に、不当な歴史的謬見に基づいて形成され、濫用されていると看做すべきだろう。欲望の「自然性」及び「必然性」に関する理性的な吟味は、欲望の充足が何らかの苦痛や破滅に帰結することのないように努める上で、不可欠の要諦であると理解することが肝腎である。