サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

Cahier(病床・幸福論・四歳児)

*先月末から十日余り、具合が悪くて仕事を休んでいた。インフルエンザの薬を貰って吸入しても高熱が下がらず、流行のコロナウイルスの件も頭の片隅を過り、地元の総合病院で念入りな検査を受けた。レントゲンとCTスキャンを撮っても肺炎像は見当たらず、重篤な咳も出ない。無闇に熱が高いだけである。恐らくは娘から貰った風邪が重篤化したのだろうと、解熱剤を処方されて自宅療養した。今はめっきり全快して元気である。

 四十度の高熱を出して蒲団へ臥せっている間は、まともに物を考える力もなく、立ち上がって食事を取る意欲さえ湧かない。終日、死骸のように切れ切れの眠りを貪るだけの数日であった。日頃はそんな殊勝な考えを懐くこともないが、健康というのが如何に重要かということを改めて痛感した。どんなに壮大な野心も、廉潔な正義も、貪婪な欲望も、一たび心身の健康が損なわれてしまえば直ちに机上の空論、手の届かぬ画餅と化す。仕事にも行かず、外出もせず、そういう無為の日々を過ごしている裡に、果敢な理想主義というものが馬鹿らしく感じられるようになった。近頃、私が俄かに「幸福論」の研究へ着手したのも、煎じ詰めれば病中の諦観が直接の契機である。

 「幸福」とは何だろうか。此れに就いては巷間に様々な考え方がある。世の中には悲劇的な不幸や破滅的な享楽を愛する人もいて、例えば三島由紀夫という偉大な作家は恐らく「幸福論」というものを侮蔑していたのではないかと推測される。だが、不幸や破滅を愛していられるのは、曲がりなりにも健康であったり、若くて旺盛な生命力を保持している間に限られるのではないか。だからこそ三島は、老醜を恐懼し夭折を望んだのだろう。

 少なくとも殊更に夭逝する覚悟がないのであれば、沈着な理智を駆使して「幸福」に就いて考えるべきではないかと思う。そうやって手に入れた知見は、恐らく他人の幸福にも寄与するだろうから。

*昨日で娘が四歳の誕生日を迎えた。身長はもう直ぐ一メートルに達する。兎に角饒舌で、幼いながらも立派な理窟を弄し、親を困らせる。けれども変わらず愛おしい。誕生祝に絵本と縄跳びを欲しがった。文武両道の健全な趣味である。十年後、二十年後はどのような人物に育っているのだろうか。気の強い、口数の多い娘のままだろうか。彼女も何れは人生の岐路に悩み、自分の「幸福論」を模索するようになるのだろうか。そうであるならば、父親である私が先行して数多の「幸福論」を研究しておくことは、娘の将来に対しても有益な試みであると言えるのではないか。光陰矢の如しである。愚昧な父は祈りを捧げる。虚栄と金銭と愛慾に惑わされず、ただ健やかに賢く幸福であれ。