サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

青春・反抗・虚無 三島由紀夫「月」

 三島由紀夫の短篇小説「月」(『花ざかりの森・憂国新潮文庫)に就いて書く。

 青春とは何か、という聊か気恥ずかしい主題に就いて真面目に考えてみようと思っても、適切な言葉を紡ぎ出せるのかどうか心許ない。体制的な青春、反抗的な青春、従順な若者、頽廃的な若者、それらは個人によって様々に異なる代物で、それを総括して語り得る言葉や定義を編み出すのが「思惟する」という行為の本懐なのだろう。けれども、それは容易な作業ではない筈だ。

 少なくとも、この「月」という風変わりな小説に登場する若者たちは、御世辞にも従順で体制的な人間であるとは評し難い。彼らの頽廃的な青春は、所謂「健全な社会」が若人に期待するような生産的方針を欠いていると言えるだろう。彼らは何かに向かって抵抗し、反発している。それは青春の特権であろうか? だが、従属する青春が成り立つのならば、反抗は必ずしも青春の必須の構成要件ではないという結論に帰着する。

 社会の一般的な価値観に馴染めない若者にとって、青春は自ずと反抗的な精神を宿すものだろう。それは必ずしも十代の少年少女に限られた問題ではなく、年齢を問わず、誰にとっても先行する支配的な価値観との軋轢は身に覚えのある経験ではないだろうか。様々な場所に存在する、様々な属性を備えた「管理者」たちの群れに憤怒を懐いた経験のない人間は、豚のように幸福だ。その幸福を抱えたまま生きて死んでいけるのならば、人生というものは頗る単純な構図で織り上げられた安楽な絨毯のようなものに過ぎない。豚が幸福であることは、批難されるべき事柄ではない。体制の食い物になることが不幸だと断定する権利は誰の掌中にも握られていない。

 かれらは昼の次には夜が来るとか、すべての百日紅さるすべりの花は紅いとかいう理論がきらいだった。それはいもたちの立てた理論である。藷たちの信奉する理論である。

 睡眠薬の与える作用、「あいつ、らりってやがらあ」と人に言わせるようなあの感覚の中では、この固い世界も融ける。(「月」『花ざかりの森・憂国新潮文庫 p.259)

 少年たちが「藷」と侮蔑的に呼称するものが、反抗すべき既成の社会であろうことは朧げに察知される。それは散文的な仕方で明示されていないが、彼らは一体、如何なる対象の特性に向かって抗っているのだろうか? 確実な社会、堅固な論理、決して溶解しない世界を忌み嫌っているのだろうか?

 ピータアは人間も人生もみんな知りつくしていると感じていた。この世でおどろくべきことは何もなかった。それでいてどうして心の安静がないのだろう。それはどんなに年老いた鼠の心にも安静がないのと同じことだ。毎日洗面器いっぱいの感情の血を吐いて、それでも死にもせぬことにはもうおどろかないで、一旦はけろりとするのだが、そして汗になる下着の替えを何枚も持ちあるいてパーティーへゆき、夜もすがらツウィストを踊りもするのだが、彼は一人になると、突然、襟首をつかまれるように、真黒な憂鬱に襲われるのである。この世におどろくべきことなんか何一つないのに!(「月」『花ざかりの森・憂国新潮文庫 p.262)

 戦時下に過ごされた三島の「青春」は、ラディゲに対する憧憬に導かれ、夭折の宿命に対する期待で占められていた。この「月」に描かれた虚無的な遊興の光景は、彼の青春が破産した後の世界を戯画的に暗示しているのではないだろうか。退屈で凡庸な生活の無際限な持続に対する恐怖と絶望は、戦後の三島の実存を貫く基調的な旋律である。夭折の恩寵に恵まれず、図らずも敗戦の後まで生き永らえてしまった者の困惑と絶望が、彼の困難な精神的道程を構成したのである。何も驚愕に値するものが存在しないのに何故、心理的な安定を得ることが出来ないのか、という疑問は、三島の実存を支配する中核的な命題の内実を裏側から照らし出していると言えるだろう。つまり、三島にとっては如何なる驚愕も有り得ないという現実こそが、堪え難い「真黒な憂鬱」の源泉なのである。悲劇的な宿命、栄光に包まれた破滅、そういった華々しい「事件」の成立が不可能であるような世界を生き抜かねばならないということ、それが三島における戦後的課題であった。

 ピータアは心に念じた。何でもいいから、愛してしまえばいいのだ。愚かな思い込みでこの娘を世界一の美人と信じ、この娘がいない世界は空虚だと信じ、この娘と結婚して仕合せな家庭を作ることを自分の夢だと信じ……。ああ、そんなことを信じるくらいなら、自分をジューサーだと信じるほうがよっぽど楽だった。(「月」『花ざかりの森・憂国新潮文庫 p.277)

 平俗な生活に附随する夢想への拒絶、日常性という桎梏への敵意、これらの奇態な感情を克服することは、三島にとって「成熟」への努力を意味していた。「金閣寺」を書き上げることによって、彼は恐らく破滅の夢想から覚醒し、平凡な日常の裡に自己の実存を充填する方向へと舵を切った。その方向性は「鏡子の家」において、更なる厳密な検討を加えられ、粘り強い推進への努力が重ねられた。しかし、彼は結局「成熟」の思想を全面的に受容する覚悟を固められなかったのだろう。冷蔵庫やハムやジューサーを嘲笑する虚無的な少年たちの遊戯は、平俗な日常性に対する侮蔑的な毀損に他ならない。結局のところ、彼は金閣を燃やすことが出来なかったのだ。金剛不壊の金閣に対する熱烈な憧憬は、彼の魂を終生、強力に魅惑し続けたのである。

花ざかりの森・憂国―自選短編集 (新潮文庫)

花ざかりの森・憂国―自選短編集 (新潮文庫)