サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

「奇蹟」と「日常」の狭間で生きること 三島由紀夫「海と夕焼」

 引き続き、三島由紀夫の自選短篇集『花ざかりの森・憂国』(新潮文庫)に就いて書く。

 「海と夕焼」と題された聊か抒情的な短篇は、作者自身が巻末の明晰な自註において述べている通り、三島にとって極めて重要な含意を帯びた観念である「奇蹟」を巡って構成された精緻な佳品である。

 そもそも「奇蹟」とは何か。それは単調で退屈な反復的現実の裡に突如として育まれ、急激に孵化する異常な事件の総称である。「奇蹟」は我々が日頃素朴に抱え込み、信じ切っている認識的な現実の組成と秩序を劇的な仕方で奇妙な擾乱へ導く。その狂暴な威力は、我々が自明の前提として少しも疑わずに尊重し、時に軽侮している「日常性」という観念を根底から覆し、蹂躙する権能を有している。「奇蹟」の到来を待ち望む者は必ず「日常」の堅牢な秩序に対する鬱屈や絶望を密かに滾らせている筈だ。「奇蹟」の到来を日々の生活の支えとすること、それを退屈な「日常」を生き延びる為の精神的な礎として役立てること、こうした精神的な機制は所謂「宗教」の領域の過半を覆う普遍的な制度として現に流布している。

 「奇蹟」という言葉を「超越」という観念に翻訳しても差し支えない。何れにせよ、それは従来の現実、既存の現実、半ば固定された現実の枠組みと断絶した特殊な性質を帯びている。言い換えれば、それは常に「非現実的な性質」を自らの本質として定言的に孕んでいるのである。「奇蹟」は既存の物理的で経験的な現実の延長線上に存在する出来事ではない。それは現実の世界を堅固に制約している動かし難い法則の枠組みを突破し、超越している。

 だが、若しも「奇蹟」が原理的に「非現実的な断絶」という性質を含んでいるのだと仮定すれば、必然的に「奇蹟」は「現実に起こり得ない」という特徴を無条件に自らの裡に宿していることになる。「奇蹟」の本質は、それが決して「到来しない」という不可能性の裡に包摂されているのである。従って「奇蹟」に関して我々が為し得ることは唯一「待望すること」だけである。「奇蹟」は無限の「待機」の過程を支え、嚮導する抽象的な「理念」としてのみ存在し得る。「奇蹟」へ到達する為には、我々は我々の現実を規定する無数の堅固な条件の制約から、完全に脱却せねばならない。「奇蹟」が限りなく「彼岸」或いは「死」に酷似するのは、こうした論理的条件に基づく必然的な帰結なのである。

 夕焼を見る。海の反射を見る。すると安里は、生涯のはじめのころに、一度たしかに我身を訪れた不思議を思い返さずにはいられない。あの奇蹟、あの未知なるものへの翹望、マルセイユへ自分等を追いやった異様な力、そういうものの不思議を、今一度確かめずにはいられない。そうして最後に思うのは、大ぜいの子供たちに囲まれてマルセイユの埠頭で祈ったとき、ついに分れることなく、夕日にかがやいて沈静な波を打ち寄せていた海のことである。

 安里は自分がいつ信仰を失ったか、思い出すことができない。ただ、今もありありと思い出すのは、いくら祈っても分れなかった夕映えの海の不思議である。奇蹟の幻影より一層不可解なその事実。何のふしぎもなく、基督の幻をうけ入れた少年の心が、決して分れようとしない夕焼の海に直面したときのあの不思議……。(『花ざかりの森・憂国新潮文庫 p.129)

 「奇蹟」そのものの不思議よりも、それが到来しなかったことの不思議に就いて考えること、そこには作者自身が巻末の解説で述べているように「大東亜戦争のもっとも怖ろしい詩的絶望」(p.285)の反響を認めない訳にはいかない。「奇蹟」は決して到来しない、若しもそれが到来するならば、既に「奇蹟」は「奇蹟」に相応しい性格を失っている。恐らく三島にとって「奇蹟」とは終極的な「破綻」であり、全面的な「滅亡」である。言い換えれば「奇蹟」の到来の不可能性という観念は、三島の胸底に対して「夭折」の不可能性を暗黙裡に示唆している。

 「奇蹟」が「死」に結び付くことは、論理的な必然性を伴った帰結である。何故なら「奇蹟」は、常に「現世の超越」という本質的な特徴を孕んでいるからだ。そして「奇蹟」が到来しないことの不思議に直面するという事態は「生活」の始まりを意味している。如何なる奇蹟、如何なる超越的な救済にも恵まれる見込みのない、索漠とした「生」の現実に堪えること、それが我々の人生の避け難い真実であることは周知の事実である。人間性の成熟と涵養は、そうした「奇蹟」の否定を礎として営まれる。だが、三島由紀夫という作家は「老年」と「成熟」を峻拒した人物である。彼の内なる野望は数十年の雌伏の後に猶も、絢爛たる「奇蹟」の到来に総てを賭けようとしたのである。

花ざかりの森・憂国―自選短編集 (新潮文庫)

花ざかりの森・憂国―自選短編集 (新潮文庫)