サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

近親姦と浪漫主義 三島由紀夫「水音」

 三島由紀夫の短篇小説「水音」(『岬にての物語』新潮文庫)に就いて書く。

 煎じ詰めれば、この「水音」は「父殺し」を主題に据えた作品である。父親の謙造は、病床に臥せる娘の喜久子に対して性的な欲望を懐いており、喜久子と長兄の正一郎との兄妹愛は「恋愛に近いもの」であると明記されている。つまり、この「水音」の世界は濃密な「近親姦」(incest)の空気に覆われているのである。

 一般に近親姦は社会的な禁忌に定められている。三島にとって「禁圧された恋情」というモティーフは重要な意味を帯びている。例えば「春の雪」において、松枝清顕が綾倉聡子に劇しい執着を示すようになるのは、聡子と皇族との婚約が勅許を得た後である。聡子との関係が「未来」を剥奪されることによって特権的な光輝に鎧われるのは、それが三島の嫌悪した平板な日常性の秩序を、つまり無限に持続する「時間」の圧政を破壊するからであると考えられる。

 実際この兄妹の愛は恋愛に近いもので、二人の間を妨げているものは、羞恥と怖れに他ならぬと思われた。それだけに一つ屋根の下に暮しながら、これほどお互いに未知のところを豊富に持っている兄妹はめずらしかった。何かの瞬間に、二人がほとんど兇暴な理解で結ばれれば、そのとき二人にとって、出来ないことは何もないだろう。(「水音」『岬にての物語』新潮文庫 p.300)

 仮にインセストが社会的な悪徳と看做されていないならば、三島はそれを重要なモティーフとして認めなかっただろう。重要なのは、それが「淪落」として忌避され、断罪の対象に挙げられているという点に存する。言い換えれば、三島は「破滅しない恋愛」に価値を見出さなかったのだ。彼にとって恋愛の情熱は、社会的制度の一環としての「婚姻」と鋭く背馳するものである。そうでなければ、熾烈な恋情を梃子として日常性を超克する悲劇的なロマンティシズムは成立しない。

 「ロマンティシズム」(romanticism)という多義的な概念の包摂する範囲を厳密に局限することは恐らく不可能であるが、少なくとも三島における「浪漫主義」は、超越的な「実相」を肉体的な「仮象」の裡に見出したいという欲望の表現であると思われる。彼が性急な死を望むのは、プラトンの対話篇「パイドン」において語られる「愛智」の欲望に強いられた結果ではなく、人生において唯一「彼岸」と「此岸」とが接触する界面としての「死の瞬間」だけが、本来ならば不可能である筈の「実相」と「仮象」との稀有な合致を可能とする奇蹟的な刹那であると定義された為ではないかと考えられる。プラトンが超越的な「実相」に就いて語り、エピクロスが経験的な「仮象」に就いて語るのだとすれば、浪漫主義者は「実相」と「仮象」の目映い融合に就いて語るのだ。三島の語彙に置き換えるならば、それは「認識」と「行為」の完璧な一致ということになる。尚且つ、三島にとって最も重要なのは「美」の「実相」である。「美しい実相」と「美しい仮象」が重なり合う奇蹟的な局面の到来を、彼は専ら「破滅」の裡に求めたのだ。

岬にての物語 (新潮文庫)

岬にての物語 (新潮文庫)