サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

絶対者を黙殺する男 三島由紀夫「商い人」

 三島由紀夫の短篇小説「商い人」(『岬にての物語』新潮文庫)に就いて書く。

 世俗の人間の立ち入りが許されない「禁域」という設定は、「超越」と「絶対」を重んじる作者に相応しい主題である。

 知識としては、左のような知識が与えられる。現在修女は百数名で、その三分の一は白いスカプラリオを着て、祈りを主とする歌隊修女である。三分の二は茶色のスカプラリオをつけ、労働を主とする助修女である。白は観想を象徴し、茶は労働を象徴する。歌隊修女は、まるで本物の天使である。長い棒の先につけた火で燭台の蠟燭に火が点ぜられると、ラテン語の単純な譜のグレゴリアン聖歌をうたいながら、廻り行をする。修女たちは黒布をかずき、木靴サボを穿き、伏目がちに、磨き立てられた廊下を歩む。ほかの修女と話すときも、ほとんど言語を用いず、静かな手の動きで話す。……等々。(「商い人」『岬にての物語』新潮文庫 pp.326-327)

 「観想」と「労働」の対比もまた、三島的な主題に合致している。「観想」を旨とする「天使」という実存的様態は、肉体的な感覚を離れた超越的認識の象徴である。「天使園修道院」という名称は、この禁域が決して感官によっては捉えられない「実相」の世界であることを明瞭に示唆している。

 禁域を覗き込みたいという世俗的な野心は、三島の根深いロマンティシズムを暗示しているように思われる。彼にとって「実相」を肉眼によって把握することは、最も痛切で重要な欲望の対象であった。絶対的な「美」を超越的な祭壇に安置しておくことは、その実存的方針に即さない。何が何でも「実相」を「仮象」と合致させることが、彼の悲痛な宿願だったのである。

 それならば「商い人」とは何者か。彼は「実相」に対する憧憬を有していない。人々の野卑なロマンティシズムに便乗して、経済的利潤を得ることだけに齷齪している。殊更に「実相」を求めず、専ら「仮象」の世界に甘んじて何の痛痒も覚えない人種を、三島が好意的に眺めたとは思われない。彼が最も憎んだのは、無限に持続する「仮象」の退屈な連鎖である。不完全な「美」が断続的に顕現する世界は、彼の鋭敏で貪婪な感受性を満足させなかった。尤も、だからと言って彼が、純然たる「観想」の領域に殉ずることを望んでいたと判定するのは軽率である。彼は不可知の「美」を愛さず、飽く迄も感官を通じて「美」へ達することを欲していた。天使園の修女たちの境涯を模倣することは、彼の理想に反していたのである。

 戦後の日本社会に対する三島の悪しざまな批難は夙に知られている。例えば「金閣寺」における次の記述は、その明瞭な象徴であろう。

 私にとって、敗戦が何であったかを言っておかなくてはならない。

 それは解放ではなかった。断じて解放ではなかった。不変のもの、永遠なもの、日常のなかに融け込んでいる仏教的な時間の復活に他ならなかった。(『金閣寺新潮文庫 p.86)

 三島にとって「敗戦」は、無際限な「仮象」の持続の復活に他ならない。戦後の民主主義社会に対する彼の執拗な憎悪は、それが「仮象」への度し難い埋没を意味したからである。平和憲法に安住し、経済的繁栄に現を抜かすデモクラティックな社会の秩序は、絶対者との邂逅を欲する三島の不可能な欲望を憫笑し、黙殺するだろう。彼の末期は、そうした社会に対する異議申し立ての側面を孕んでいたように思われる。無論、それを憂国の至情として殊更に美化するのは御門違いである。彼は純然たる国粋主義者ではなく、その政治的活動は専ら審美的な理念に裏打ちされている。彼は自らの審美的な要求を叶える為に「憂国」という大義を利用したのである。絶対的な「美」に対する三島の渇仰は、常軌を逸するほどの情熱に支配されていたのだ。

岬にての物語 (新潮文庫)

岬にての物語 (新潮文庫)