サラダ坊主日記

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The Complex of Sadism, Aestheticism, Nihilism, Mysticism 三島由紀夫「鍵のかかる部屋」

 三島由紀夫の短篇集『鍵のかかる部屋』(新潮文庫)に就いて、総括的な文章を書いておく。今までは個別の作品を一つずつ取り上げて論じていたのだが、余りに手間が掛かるし、短篇というものは或る程度、包括的な地平から眺めた方が、個々の作品の備えている意義や役割が把握し易いように思われるので、纏めて論じておきたい(収録されている短篇の中で「彩絵硝子」から「死の島」までの作品は、既に個別の感想文を投稿済みである)。
 三島由紀夫という作家には、幾つかの特徴がある。先ず、その硬質で明晰な文体である。彼は装飾的な美文を用いて書いた作家であるという風評が古来根強いが、それは一面的な解釈であると私は思う。確かに彼が文章の審美的な側面に極めて厳格な意識を持っていたことは事実であろう。また、十代で書かれた「花ざかりの森」などの初期作品に用いられている文体が、曖昧で審美的な感覚的印象の連鎖に重きを置いていることは紛れもない事実である。しかし、例えば「仮面の告白」以降の作品群は、そのような詩的文体を離れ、小説的な骨格(「散文的骨格」「論理的骨格」と言い換えてもいい)を明瞭に備えた緊密な言葉で綴られている。確かに神経の行き届いた様式的な文体だが、徒らに華美な装飾を纏ったものではない。芸術的に観照されることを意識した文体であることは疑いを容れないが、所謂「三島由紀夫の審美主義」は、そういう表層的な事柄に関わる特性ではないと私は思う。
 第二に、三島由紀夫の特質として挙げられるのは、その度し難いニヒリズムの根深さである。このニヒリズムという概念を精細に定義することは私の手に余る作業だが、我流で論じていきたい。彼は戦時下の日本で青春時代を過ごし、破滅を約束された人間として自己形成を遂げた。約束された破滅は、人間の生活から容易に道徳的・社会的な抑圧を取り払う。言い換えれば、約束された破滅は人間の生活を審美的な遊戯に作り変える。けれども敗戦によって、破滅の到来は無限に延期された。これが呪わしい「絶望」であったことを、三島は繰り返し語っている。彼は無限に繰り返される退屈な日常性の虚しさを劇しく嫌悪している。こうした感情は何を意味するのか? 生きることに向いていなかったと言ってしまえば、それまでの話である。だが、それでは議論を深める意味がない。恐らく三島由紀夫は「英雄」に憧れていたのである。しかも、悲劇的な死によって彩られ、称揚され、記憶されるような「英雄」となることを。ここには、彼の倒錯的な審美眼が関与している。彼は「生きること」と「醜悪」とを結びつけ、華麗なる「死」を「美」と結び付けた。美しい者が堕落することを、彼は「老醜」と定義した。美しい者は、その美しさの絶頂において死ぬべきである。そうすれば、永遠に「美」の記憶が保たれることになるからだ。しかし、敗戦によって切り拓かれた永続的な社会は、そのような「美の剝製」を許さない。こうした経緯の裡に、三島の審美主義的な葛藤が萌芽する。美しいまま死にたい、醜く生き永らえることは望まない。こうした考え方が、戦時下の精神と緊密に癒合していることは明白である。
 言い換えれば、三島のニヒリズムは、どうせ死んでしまうのだから生きていても意味がないという古典的な形式とは異なっている。寧ろ彼のニヒリズムは、この生活がずっと続いてしまうこと、その最果てにおいて無意味な老衰と死が待ち構えているという事実によって喚起されている。単調な生の無際限な持続が、彼の内なる虚無を生み出す最大の要因である。例えば「慈善」という作品には、そうした戦後的ニヒリズムの反映が明瞭に認められる。このニヒリズムと如何にして対決するかという問題は、三島の文業を通じて持続的な探究が重ねられている。
 第三に、これは先述した審美主義と虚無主義と密接に関わり合った問題であるが、彼の度し難い神秘主義的傾向である。この「神秘主義」という概念の明確な定義も、ニヒリズムの場合と同じく容易ではないが、それが「絶対的価値との融合」という欲望の焦点を抱えていることは、一般的な事実として是認してよいのではないかと思う。この場合の絶対的価値とは、一般に「神」であり、従って倫理的価値として定義されるのが通例であるが、三島の事例においては、そこに審美主義的な修正が附加される。つまり、彼にとっての「絶対的価値」は審美的な価値判断の領域における絶対性なのである。それゆえに三島は「絶対者」の感覚的な可知性に対する仮借ない固執を示す。「金閣寺」において三島は、主人公である寺僧の溝口に「眼に見える美しか信じない」と語らせている。プラトニズムにおいては、絶対的な「実在」は専ら「理智」の働きによってのみ捉えられると説かれているが、三島は飽く迄も絶対的な「実在」の「感受」を要求するのである。肉体からの脱却を霊魂の純化と看做す古代の伝統に則って、三島は死を通じて絶対的価値への到達を企てる。三島のサディズム的な傾向は、自己の肉体の無効化に対する欲望の反映ではないかと思われる。例えば「憂国」において、若い軍人の夫婦は「割腹」という極めて残虐な方法を通じて、絶対的な「美」の象徴に化身する。
 さて、この短篇集の表題に掲げられた「鍵のかかる部屋」という作品の基調を成すものは、敗戦を契機として生じたニヒリズムであり、それゆえの底知れぬ飢渇が虚しい情事への傾斜を齎している。重要なのは、このニヒリズムが奇態で性急な「肉慾」と結び付いている点である。何故なら、肉体には如何なる「意味」とも無縁の生々しい実在性が宿っているからだ。何もかもが虚しいならば、つまり肉慾に尤もらしい「愛情」という大義名分を被せないならば、肉慾の対象とは専ら感性的な実在に過ぎない。

 一雄の世界は瓦解し、意味は四散していた。肉だけが残った。この意味のない分泌物を包んだ肉だけが。それは見事に管理され、完全に運営され、遅滞なく動いていた。医者の言ったとおりだった。百パーセントの健康。(「鍵のかかる部屋」『鍵のかかる部屋』新潮文庫 p.340)

 恐らく「金閣寺」までの三島は、戦後的ニヒリズムに対して、神秘主義的な解決の方途が有り得ることを信じていたのではないだろうか。ロマンティックな解決によって、つまり絶対者との融合によって、内なる虚無は充足されるだろうという期待が生き延びていたのではないか。しかし、実際には「金閣寺」において、両者の融合の不可能性は決定的に告示された。究竟頂の扉は開かず、溝口は絶対的な美の象徴たる金閣寺を焼き払う。その上で彼は「生きよう」と呟くのである。けれども、それは解決であるというよりは避け難い挫折に過ぎなかったのではないか。その後に書かれた「鏡子の家」において、三島はニヒリズムに対する適応の範型を模索する。サディズムは、その一つの形式であると言えるかも知れない。言い換えれば、サディズムニヒリズムの更なる徹底であり、人間の肉体を純然たる物質に還元しようとする強烈な衝迫である。しかしながら、一雄は厳密な意味におけるサディストでもない。彼は房子の肉体を引き裂いてしまうことに恐懼を感じている。一雄という人格は、中途半端な場所に佇んでいる。恐らく房子の肉体を引き裂いて、純然たるサディストに鞍替えすることが出来れば、彼はニヒリズムと同化して、無限の自由を享受することが出来るのだ。「鍵のかかる部屋」は、彼を自由で透明なサディストに改造する為の秘密の工房のようなものである。だが、彼はそこまでニヒリズムに徹することが出来ない。それならば、彼は何を願っていたのか? 結局、三島は審美的な絶対者との融合を諦められなかったのだろうか?