Politics and Cybernetics 安部公房「飢餓同盟」
安部公房の長篇小説『飢餓同盟』(新潮文庫)を読了したので感想文を認める。
この作品が「権力」や「革命」といった政治的な主題を取り扱ったものであることは鮮明な事実である。また、この作品を構成する説話論的な構造の中核に「人間レーダー」というサイボーグ的な着想が埋め込まれていることも注目を要する。
政治的な経験というもの、主として途方もなく強大な権力機構と、それによって自由や尊厳や主体性を毀損された人間の滑稽で悲惨な実存を描き出すことは、安部公房の文学における重要な主題の一つである。それと共に、人間の固有性を解体し、人間と人間以外の存在(動植物、鉱物、機械など)の質的な境界線を解除し、流動的な遷移を推進する想像力の様式もまた、安部公房の文学を支配する基礎的な旋律であると言えるだろう。これら二つの特徴は相互に密接な結び付きを備えている。人間の固有性や主体性、自己同一性に疑義を呈し、それを文学的な想像力の内部において実験的に改変したり破壊したりしてみせることは、安部公房という作家の抱え込んだ根深いオブセッションであるように思われる。端的に言えば、それはヒューマニズムの否定である。彼は人間の尊厳を抒情的に讃美するオプティミズムとは無縁であり、寧ろその疑わしさ、欺瞞性を仮借ない筆致で暴き立てることに情熱を燃やしている。彼の黒々とした哄笑は、素朴なヒューマニズムの信奉する諸々の通念を一つずつ破綻へ追い込む度に、雷鳴の如く鳴り響くのである。
「飢餓同盟」という作品は奇妙な革命の旗揚げと挫折を描いているが、そこに壮麗で勇敢なヒロイズムの旋律を聴き取ることは出来ない。権力を抱えた人間たちの度し難い不合理や浅ましさ、驕慢や貪婪が描き出されるのと同じ熱量で、革命家たちの惨めさや独善性、愚劣さが徹底的に戯画化され、嘲笑される。その意味で、この作品は政治的なもの全般に対する深刻な不信によって貫かれている。但し、政治的なものに芸術的な審美主義を対置して安全圏に遁走するような身振りも特に見当たらない。音楽に憧れるヨシ子の描き方や、織木のヴァイオリンが専ら「人間レーダー」の装置の一環として扱われていることなどを鑑みると、安部公房は芸術至上主義による政治的愚劣さの超克という神話を全く信用していないように思われる(他方、三島由紀夫は、政治的活動を専ら審美的な私物化の対象に据えていたように思われる。「憂国」も「奔馬」も、政治的経験を審美的な「法悦」の踏切板として転用しているように見受けられる)。
多良根や藤野が社会的地位を悪用する「権力の亡者」であるとするならば、革命による既存の社会的秩序の転覆を企図する花井太助もまた、同じく「権力の亡者」である。それならば「革命」に如何なる正義が賦与されようとも、革命家の倫理的な価値を迂闊に信じることなど出来ない。「廉潔」という属人的な美徳の威力を聊かも期待しない安部公房の眼は、権力というものの即物的な構造と現象を露悪的に活写するだけで、美しい勝利など片鱗すら描こうとしない。だが、ヒロイズムの栄光に欺かれないことは、総ての腐敗と堕落を救済するだろうか。革命の無価値を告示しても、それで社会が質的な改善を遂げる訳ではない。
森は思った。まったく、現実ほど、非現実的なものはない。この町自体が、まさに一つの巨大な病棟だ。どうやら精神科の医者の出るまくなどではなさそうである。われわれに残されている仕事といえば、せいぜいのところ、現実的な非現実を、かくまい保護してやるくらいのことではあるまいか。森は人垣をはなれて、歩きだした。しかし、駅の方にではなく、いまやって来た道を、もう一度診療所の方へ……あたらしい勤め先がきまるまで、どのみちたっぷり暇なのだ。傷だらけになった、飢餓同盟に、せめて繃帯のサービスくらいはしてやるがいい。森ははじめて、自分が飢餓同盟員であったことを、すなおに認めたい気持になっていた。正気も、狂気も、いずれ魂の属性にしかすぎないのである。(『飢餓同盟』新潮文庫 p.250)
登場人物の中で最も客観的な良識の持ち主であると思われる医師の森は、惨憺たる革命の敗北を見届けた後で、束の間の愚劣な同胞たちを断罪することもなく、静かに自らの職務を全うしようと考える。権力を巡る醜怪な空騒ぎを、高みから眺め下ろして一刀両断しても詮ないことである。何が正常で何が異常かということの判断の境目は極めて流動的なものだ。ヒューマニズムが「人間」の特権的な弁別によって支えられているとすれば、それが必然的に「正気」の特権的な弁別をも含んでいるであろうことは明瞭である。自己同一性が疑わしいならば、そもそも精神的な正常性という概念も充分に疑わしい。そうやって複数の境界線を解除することで、安部公房は一体、如何なる世界に直面しようと試みたのだろうか。ヒューマニズムに対する革命的な叛逆だけが、彼の志の総てであったとは言えないように思う。