サラダ坊主日記

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Urbanization and Logical Prison 安部公房「無関係な死・時の崖」

 安部公房の短篇小説『無関係な死・時の崖』(新潮文庫)に就いて書く。

 芸術的作品は、それが近代的個人の内面に根差していようとも、或いは国家を包摂する巨大な宗教的権威の反映であろうと、人間の個人或いは集団の描いた「幻想=妄想=fantasy」の表出された形態である。単独の個体が孤独の裡に作品を創出するという近代的な理念の下では、つまり作品が個人の内面や主観と不可分の関係を締結する時代においては、表出された幻想は個人の遺伝的な特性や歴史的な環境や、そういった様々な要素の「複合体=complex」として形成される。それは世界に対する解釈の様態の一つの鮮明な結実である。
 安部公房の作品を読むことは、安部公房に固有の「幻想=妄想=fantasy」の形式や様態、構造や原理、包括的な特性を読み取ることに他ならない。それが作家の個性であり、固有の価値であると言える。そして芸術的交流とは即ち他者に固有の「幻想」を相互に交換し共有し嘆賞する営為の総体であると定義し得る。
 安部公房の提示する幻想には様々な特徴が備わっているが、その幻想を構成する原理の中核に鎮座する一個の揺るぎなく重要な主題とは即ち「自己の連続性の断絶」という逃れ難い信憑である。自己の連続性に対する根深い不信は、安部公房の作品の随所に浸潤し、無数の細部を規制し、彼の作品に含有された世界観の根幹を成している。それは初期の連作短篇集『壁』(新潮文庫)においても明瞭に示されている。「S・カルマ氏の犯罪」では「名刺」との間にアイデンティティの明証性を巡る不毛な論理的格闘が演じられる。「名刺」に象徴される自己の社会的側面と、社会から切り離された自己の匿名的側面との癒し難い分裂を巡る物語は、悪夢のような論理的連鎖を通じて執拗に探究される。同様の関心は、彼の様々な作品の裡に、その片鱗を発見することが出来る。
 自己の連続性の断絶という実存的真理は、多様な変奏を示しながら、彼の作品の奇想に充ちた展開と構成を支えている。言い換えれば、自己の連続性の断絶という主題から、個々の作品の主題が様々な「異本=variant」として派生し、その奇態な細部の描写を析出しているのである。その変奏を幾つかの範型に要約するとすれば、例えば「変身/分身/転身」という風に大別し得るだろう。例えば本書に収められた「人魚伝」という極めて奇怪な短篇には、無限に分裂し再生する自己という主題が明確に象嵌されている。同時に「人魚」の「幻想=image」が「第四間氷期」に登場する水棲人類にも通ずる「変身」の主題を伴奏のように響かせている点も注目に値する。「人間」という生物学的な種別・範疇の連続性や同一性に対する懐疑の眼差しが、こうした「人魚」の幻想には含有されているのである。
 或いは「転身」という主題に関して言えば、例えば本書に収められた「誘惑者」のように、帰属や立場が俄かに反転する構成の類型を挙げることが出来るだろう。警察と犯人の関係が一瞬で反転する物語の構造は、自己の帰属や同一性の疑わしさに対する認識から培養されていると看做して差し支えない。そして、これらの自己の連続性の断絶という危機的な状況に逢着して、安部公房の作品の主人公たちが一様に苛まれるのは「証明の著しい困難」という現象である。自分が何者であるかということを、明瞭で堅固な事実として提示することの底知れぬ難しさが、彼らの絶望と不安の直接的な温床として機能するのである。
 例えば表題作である「無関係な死」において、主人公は自宅に放置された得体の知れない屍体との潔白な関係を明証する為にあらゆる手立てを講じる。しかし、その手立ての一つ一つが、客観的な論理の見地からは、深刻な瑕疵を帯びているように眺められる。彼には殺人を犯した記憶など全くないが、彼の自宅に屍体が存在するという身も蓋もない事実が、彼の刑法上の潔白を致命的に毀損する。対策を講じれば講じるほど、彼の潔癖を証明する根拠は弱体化していくのである。これもまた、自己の連続性の断絶という主題の不穏な表現の一種であると言えるだろう。潔白の証明の不可能性が、遡及的な仕方で彼の有罪を暗示する。こうした推論の畏怖すべき威力は、彼が囚われた「論理の監獄」の絶望的な構造を生々しい恐懼の感情として浮かび上がらせる。
 こうした物語の構造の総体が、巨大な「都市」の社会的秩序と結び付いていることは明瞭な事実であるように思われる。夥しい人口を包摂し、個々の人間の生物学的な規模を超過して膨れ上がった複雑怪奇な秩序としての「都市」においては、人間同士の関係に絶えず「匿名性」が付き纏う。隣人の名前も素性も知らないことが常態化している都市の生活は、地縁や血縁に基づいた濃密な共同体における人間関係とは異質な世界を現出させる。我々はあらゆる場面で「自己証明」を求められ、客観的且つ論理的な説明を通じて自己の素性を開示する作業に汲々とする。そういう世界における絶望の形式に、安部公房は執拗な関心を懐き続けた。自己証明の困難という問題が最も尖鋭な葛藤として結実するのは、恐らく法廷における無実の証明という局面であり、例えば「無関係な死」は、その不毛な格闘の論理的要約に他ならない。「S・カルマ氏の犯罪」における絶望的な法廷の幻想も、正に「自己証明」の根源的な不可能性という社会的陥穽と密接な聯関を有している。「都市化」(農村から都市への人口の急激な流入と集中)という社会的現象が齎した個人の実存的変革における固有の不安と諸問題が、安部公房の作品には明瞭に刻印されているのである。

無関係な死・時の崖 (新潮文庫)

無関係な死・時の崖 (新潮文庫)