サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

Cahier(虫めづる姫君・失踪)

*先日の話である。私は仕事で不在であったので、妻から聞いた話だ。四歳の娘が、妻の母と一緒に風呂に入っていた。何処から忍び込んだのか、浴室の床を、一匹のダンゴムシが這っていた。妻の母が、それをシャワーで排水溝に洗い流した。それでもしぶとく生き延びて排水溝から這い出してきたダンゴムシに、義母が追い討ちを掛けて止めを刺したら、娘が涙ながらに怒り出したらしい。その言い分は、ダンゴムシを殺してしまったら、そのダンゴムシはもうお母さんにもお友達にも会えなくなる、それが不憫だ、自分が指で摘んで外へ逃がしてやることだって出来たのに、なんで殺してしまうのか、というものであった。それから一向に怒りも哀しみも収まらず、結局排水溝からダンゴムシの遺骸を拾って、家の外に埋めて墓を作ってやるという対応を提示して、漸く娘も納得したらしい。ダンゴムシを埋めた場所には、娘の私物である団栗が二つ、墓碑の代わりに捧げられた。団栗を目印にすれば、ダンゴムシのお母さんやお友達が、ここにダンゴムシがいると気付くだろうという娘の考えの反映である。
 大人にとっては単に目障りな害虫の類に過ぎないダンゴムシであるが、保育所に通って所庭や公園を駆け回って遊んでいる娘は、ダンゴムシとの心理的距離が近く、両者の関係は親密なのである。自分自身の幼少期を顧みても、確かにダンゴムシは蟻と並んで、最も身近な昆虫の双璧であった。蝶や蜻蛉や飛蝗は、直ぐに逃げてしまって容易に手の届かない高嶺の花だが、ダンゴムシは動きが遅い上に、突くと丸まって動かなくなるので、捕らえるのも触れるのも簡単である。
 娘は日頃、何かを見聞しても「可哀想」という言葉を発することが滅多にない。大体、誰に似たのか妙に気が強く弁の立つ幼女で、保育所でも男児と一緒になって戦いごっこに興じる男勝りの気質を備えている。公園で鳩を見掛ければ猫のように追い縋る。私が彼女の機嫌を損ねるような言動に及ぶと殴る蹴るの暴行で報いて来る。そういう苛烈な主義の娘が、見知らぬダンゴムシの不幸な境遇を慮って哀訴するというのは、私には心を搏たれる珍奇な事件であった。要するに彼女は他人の立場に身を置いて悲嘆を共有するという社会的能力(他人どころか、生物学的な種別すら超越している。殆ど「神」に等しい)を養いつつあるのである。紛れもない精神的成長の証だ。麗しい事件である。

*最近は安部公房の『燃えつきた地図』(新潮文庫)を再読している(註・私は成る可く作品の執筆年代順に繙読することを方針としているのだが、うっかり勘違いして「砂の女」に続く「他人の顔」や「榎本武揚」を飛ばしてしまった。一旦「燃えつきた地図」は後回しにして「他人の顔」を先に再読する予定である)。所謂「失踪三部作」の一つに数えられる作品で、数年前に通読した覚えがある。聊か難解な小説で、注意深く読み進めている。「失踪」という主題が、安部公房にとって何故、重要な意味を持ったのかという問題は、興味深い論件である。「砂の女」の場合は、失踪した人間の側から、失踪の内実が捉えられ、描かれている。少なくとも物語の過半までは、彼にとって失踪は本人の意に反して、不当な強制によって現出させられた事態であったが、物語の終局に及ぶと、彼は自らの意志で脱出を断念若しくは延期する。そのとき、彼の失踪は、不当な強制から主体的な選択に転轍したのである。
 「失踪」という主題には、自己連続性の断絶というメカニズムが内包されている。自分が何に、何処に帰属しているかという問題は、当人の自己同一性の安定と密接に結び付いている。例えば初期の長篇小説「けものたちは故郷をめざす」において、主人公である久木久三は、自らの人種的ルーツであり故郷である「日本」への渡航を目指す。しかし、その目論見は失敗に帰結し、彼の身柄は他ならぬ日本人の手で密航船の奥底に幽閉される。言い換えれば、彼は自らのルーツへの帰還を禁圧されたのである。自己連続性の解体というモティーフは、初期の作品から一貫して安部公房の文業を貫いている中心的な論件である。それは強いられた現象であると同時に、彼の個人的な希望=欲望の対象でもある。それは悲劇的で英雄的な自己の「本質」を捏造しようとした三島由紀夫の浪漫主義的な野望とは全く異質なものである。

燃えつきた地図 (新潮文庫)

燃えつきた地図 (新潮文庫)