サラダ坊主日記

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変形・被害・同一性の剥奪 安部公房「壁」

 安部公房の『壁』(新潮文庫)を読んだので、感想文を書く。
 最近は半年以上放置して埃を被っていた自作の小説の続きを書くことに労力を費やしていて、読書ノートを書く時間が確保出来なかった。加之、創造することに夢中になると、分析することには余り食指が動かなくなる。彼是と能書きを垂れるくらいなら、さっさと自分で書いてみるのが良いと思って、愚にもつかない小説の真似事に興じている訳だが、決して何の書物も読んでいなかった訳ではない。
 余り細々したことを書く積りはない。綿密な分析を心掛けていると一向に読書が捗らない。それに精細に読んだからと言って、作品に対する理解度が上がるとは必ずしも断言出来ない。だから、もっと粗雑なメモ書きのように、簡素な感想を書き留めるくらいで済ませたいというのが今の偽らざる心境だ。
 安部公房の『壁』には、元々バラバラに発表された幾つかの短篇小説が「壁」という主題の許に緩やかな聯関を成して収められている。とはいえ、個々の作品に、物語としての連続性が備わっている訳ではなく、それぞれの作品は独立した構成を持っている。けれども、これらの作品には確かに主題や要素といった部分において、根本的な共通性が行き渡っている。
 先ず第一に、安部公房は確乎たる自己同一性というものを信憑していない。寧ろかなり根強い懐疑を寄せているように思われる。例えば「S・カルマ氏の犯罪」の主役であるカルマ君は、或る日突然、自分の名前を想い出せなくなり、自己証明の不可能という驚くべき不幸と絶望の深淵へ突き落とされる。こうした筋書きが、フランツ・カフカの「変身」を強く想起させることは論を俟たない。彼は「名刺」との絶望的な格闘を通じて自己の奪還を試みるものの、不条理な出来事の連続によって彼の野心は絶えざる挫折を強いられる。
 第二に、安部公房の作品においては、肉体というものの確実性は、自己同一性と共に極めて不確かで安定しないものとして扱われている。自己が不確かであるのと同様に、肉体の輪郭や組成もまた、極めて脆弱な自立性しか持ち合わせていない。彼の作品の登場人物たちは容易に「壁」になったり「繭」になったりする。カルマ君もアルゴン君も「壁」に呑み込まれてしまう。また、安部公房の作品に「人肉」を食らうという主題が顕れることにも注意を払うべきだろう。人肉というものに対する特権的な尊重は、作者の漆黒の諧謔によって踏み躙られ、牛や豚や鶏と同じように遇される。人間の肉体に関する諸々の禁忌を、作者のシニカルな精神は明瞭に軽んじているのである。
 第三に、安部公房の作品に登場する人物たちは、主体的な意志とは裏腹に、急激な世界の変貌に巻き込まれて、抗い難く不条理な宿命に呑み込まれてしまう。こうした性質もまた、フランツ・カフカの濃密な影響に由来する傾向なのかも知れないが、彼らは謎めいた力によって必ず受動的な立場の裡に押し込められてしまう。言い換えれば、作者は「自己」というものの首尾一貫した主体性という近代的観念を余り信用していないのではないか。自己同一性を疑いながら、主体的な努力の成功という神話を信頼することは出来ないだろう。
 これらの性質は、私がこの二年半ほど集中的に取り組んできた三島由紀夫の作品とは全く異質な特徴であるように思われる。三島は寧ろ絶えず強烈な自己同一性を望み、維持していたように感じられるし、自己の肖像に関する記憶が永遠の重量を獲得することを願っていたように見える。例えば「金閣寺」において、語り手の「私」は「金閣」との融合を望みながら絶えず疎隔に苛まれ、最終的には自らの手で「金閣」を焼き亡ぼすという果敢な暴挙に訴える。彼は究竟頂の扉に拒まれることによって「金閣」との絶対的な断絶を思い知る。だが、安部公房の書く人物ならば、きっと「金閣」に吸い込まれて、その精緻な装飾を施された建物の一部に変身してしまうだろう。少なくとも、彼は「金閣」を焼き払うという主体的な行為には踏み切らないだろう。これらは、良し悪しの問題ではない。スタイルの差異の問題である。三島は自己の永遠を願ったが、安部公房は寧ろ自己の根源的な「不在」を疑ったのである。尤も、晩年の三島もまた「豊饒の海」の最終巻において同様の疑義に到達したようにも考えられる。

壁 (新潮文庫)

壁 (新潮文庫)