サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

「Hopeless Case」 32

 長い正月休みが始まった。辰彦の実家は船橋の夏見にあり、日頃から週末の休暇に幾度も孫娘の顔を見せに帰っていたが、梨帆の実家は金沢にあり、纏まった休暇でなければ帰省は難しい。だから盆暮の長い休暇は新幹線で金沢へ帰るのが、二人が所帯を構えて以来、毎年の慣例となっていた。娘の杷月はづきは非日常の予感に興奮して、出立の前夜、容易に寝付かなかった。荷物の準備が捗らない梨帆は少し苛立ちながら、柔らかな声で何度も子守唄を歌った。その柔らかな声の裏側に抑制された感情の凝縮を、辰彦は密かに懼れた。杷月が拙い日本語で母親を真似て子守唄を歌う声が寝間の暗闇を浮遊した。辰彦は天井の壁紙を見上げていた。彼も眠れる気がしなかった。
 忘年会で遅くなった翌日の梨帆は、明らかに素気ない態度で、具体的な不満を述べる代わりに暗黙の諒解のようなもので怨恨を報せるような遣口に、辰彦は言葉にならない息苦しさを感じた。けれど、梨帆の態度に異議を唱える資格が彼にある訳ではなかった。仕事の附合なんだから仕方ないだろという古典的な言い訳が通用する時代は既に去った。そういう黴の生えた言い訳を復権させたいと願うのでもなかった。何れにせよ、辰彦に勝ち目はない。
 梨帆は同じ大学の、一つ下の後輩だった。誰かの企画した、有り触れた騒がしい飲み会の席で初めて顔を合わせた。明るい笑顔に惹かれた。大概の男は誰でも、女性の明るく眩しい笑顔に心を奪われる。どんな会話をしたのか、記憶の細部は既に涸れてしまった。堆積する想い出が、地層のようにどんどん被さって、古びた光景は視野から除かれていく。それが段々人の心を変えていく。何も変わらない気がするのに、知らぬ間に想い出せなくなっている。忘れ物のように、過ぎ去った幸福な光景の在処が掴めなくなる。そういうもんさ、と辰彦は心の奥で呟いた。誰だって、何処の家庭だってそんなもんじゃないか。色んな小説にも、そう書いてあるじゃないか。
 幼年時代の情景が定かではないように、梨帆と知り合って同じ時を過ごし、やがて特別な関係に進み、将来を誓い合うに至ったプロセスの風景は、押入れの段ボール箱に投げ込まれた分厚いアルバムのように行方が知れなかった。ずっと捲り返さなかった頁が貼り付いて剝がれないように、どうしても記憶の深みを捲ってみることが出来ない。子供の頃に、自分の半身のように気に入っていた玩具を、やがて見向きもしなくなるように、居場所さえ分からなくなり、経緯が想い出せなくなり、時々酷く不安になる。自分の居場所が地図の何処にも当て嵌まらない、誰も知らない空想上の土地であるような気がする。丁度、その年の瀬の辰彦は、そういう感覚の底に横たわっていた。夢中で自転車を漕いでいたら、見たこともない大きな河川の堤防にぶつかったみたいに、彼は寂寞の縁にいた。若しかしたら梨帆も同じ気分の底に横たわっているのかも知れない。けれども、それらの感情をぴったり重ね合わせることが出来るという自信は持てなかった。赤の他人が御互いを知って恋に落ち、一つ屋根の下に暮らすようになり、その結果として再び、相手が赤の他人であることを思い知って愕然とする。勝負はこれからなのだろうか? 辰彦は懶くなって乱暴な寝返りを打った。
 夜明け前に辰彦は眼を覚ました。あれほど寝付きの悪かった娘の大袈裟な寝息が、光の射さない寝間に籠っていた。梨帆の蒲団は既に空っぽだった。台所の灯りが、薄く開いた襖の隙間に滲んでいた。辰彦は躰の重さを感じた。起き上がるのが妙に億劫で、手を伸ばした携帯の画面の明るさに、眼窩の奥が少し疼いた。しかし、何時までも横たわり続けている訳にはいかない。八時の新幹線で、東京駅を発つ予定だった。凍えるような夜気の中を、辰彦は慎重な足取りで歩いた。娘が何事か唸りながら寝返りを打った。辰彦は息を潜めた。
 荷物の仕度を済ませ、無理な早起きに機嫌を損ねた杷月の歯を磨いたり着替えを手伝ったり、彼是と遽しく動き回っている裡に曙光が東の空を斬り裂いた。始発の路線バスに乗って駅まで行き、東京行の常磐線快速に揺られ、未だ機嫌の思わしくない杷月を宥め賺しながら、辰彦は朝焼けの住宅街の風景をぼんやりと眺めた。赤味の強い光線が起き抜けの民家の屋根や外壁に染み込んでいた。電車は放たれた鏑矢のように鳴り響いて走った。東京駅に着くと、キャリーケースを抱えた人々の群れで、構内は殺人的に混んでいた。時間と人波に急かされながら、朝食と珈琲を買い込んで北陸新幹線の改札を通り抜ける。姦しい構内放送、夥しい数の番線の標識、プラットフォームへ上がれば冷たい風が止まなかった。東の方角から射し込む鋭い陽光が杷月の顔を撫でて、辰彦の腕に抱えられた彼女は険しい表情を作った。純白の輪郭を燦めかせて金沢行の「かがやき」が滑り込み、轟音と疾風に取り巻かれた杷月は眼を見開いた。