「Hopeless Case」 30
三々五々、人々が散ってしまった後で、辰彦と椿は未だ互いの隣に佇んでいた。夜の闇が飲食店の目映い軒燈の群れに照らされ、視野の方々で引き裂かれていた。不機嫌そうな黒塗りのタクシーが、酔漢の横切る危なっかしい車道を蛞蝓の速さで這い回っていた。見上げた空は雲がなく、透明な漆黒が不吉な肌を広げている。もう帰らなければならない時刻だ、どう考えても、と辰彦は思った。自分の終電の時刻と、呑み過ぎた疲労で頭が一杯の上司や同僚たちは、取り残された二人のことなど気にも留めず、今頃電車に揺られて孤独で気怠い家路を急いでいるだろう。自分も本来なら同類でなければならない。立ち止まる彼らの傍らを、見知らぬ酔漢の塊が幾つも矢継ぎ早に通り過ぎる。潮騒のように、帰り道を往く呑助たちの無粋な喋り声が、街路樹の列のように果てしなく路傍に行き渡っていた。それなのに、何となく去り難かった。椿は眠そうな顔でスマートフォンの画面を睨んで何事か指先で打ち込んでいた。母親からの連絡なんで、一寸良いですか、と言って立ち止まった彼女を待つ流れで、こうして佇んでいるのも、そもそも奇妙な成り行きではあった。辰彦は神田から上野まで出て、常磐線に乗り換える。他方、市川に住んでいる椿は、少し離れた新日本橋の駅まで歩いて、下りの総武線に乗らなければ帰れない。帰る道筋が重なる訳でもないのに、仕事と無関係な用事で立ち止まる椿に、終電の迫った辰彦が附き添ってやる客観的な理由は存在しなかった。それでも、彼は引き際を掴めずに黙って騒がしい繁華街の光景を見渡しながら、時折椿の真剣な眉根を窃み見た。
「すいません、終わりました」
重苦しい酔いの疲労を吹き払うように深い吐息を漏らしながら、椿が携帯を鞄へ戻した。待たせていたという感覚が椿の側にもあったことを知って、辰彦は密かに安堵した。勝手に待っていると思われていたとしたら、気恥ずかしくて眼も当てられない。無論、その懸念は完全に解消されたとは言えなかった。何時までも立ち去らない辰彦の無神経さに業を煮やして、彼女の側から場面の転換を告げる拍子木を打ち鳴らしたのかも知れない。
だが、そうやって彼是と些細な問題を思い悩むこと自体、余りに穿った見方であり、辰彦の自意識の健康が崩れていることの証拠であるとも言えた。何を気に病んでいるのか、椿にどんな印象を持たれるだろうかと、無闇に心を配るのは不自然ではないか。辰彦は敢て視線を逸らし、闇の底に沈む古びた革靴の爪先を見凝めた。白く擦れたような傷があった。そろそろ買い換え時だ。正月休みの間に、何処かへ買い出しに行こう。
「川崎さんは神田駅から帰るんですよね」
椿の問い掛けに強張っていた躰を突かれたような体裁で、辰彦は顔を上げた。
「君は新日本橋だろう?」
直截には答えず、まるで咎めるような語調で言い放ってから、辰彦はしくじったと思って口を噤んだ。中央通りの大きな車線を、派手な音を立てて救急車が駆け抜けていった。恐らく、酒量を過ごして倒れた愚か者を回収しに行くのだろう。サイレンの紅い不穏な閃きが、信号機の光や居酒屋の軒燈の光と重なって夜の虚空に翻った。
「上野からでも帰れますよ。京成があるから」
サイレンの響きが遠のいた後の余白のような、相対的な静けさの裡にぽつんと、水滴のように椿の言葉が垂れた。辰彦は思わず真っ直ぐに椿の瞳を見た。彼女の眦には、酔いから発した睡魔の破片がこびり付いているように思われた。
「京成だと遠回りじゃないのか」
「別に構わないです」
真意は測りかねた。寧ろ測らずに措く方が望ましい気がした。そうか、と小声で言って、腕時計を見遣った。もういい加減、愚図愚図している時間は残されていなかった。
「じゃあ行こう」
神田駅に向かって歩き出すと、暫くは特に会話する言葉も思い浮かばなかった。若干の疚しさのようなものが、声帯の動きを封じていた。だが、その疚しさの正体を見凝めることには躊躇を感じたし、若しも躊躇を明瞭に自覚してしまったら、上野までの僅かな道行さえ堪え難く困難なものに感じてしまうのではないかという不安が強かった。神田駅の狭苦しいホームの端へ二人で並び、凍えるような夜風を浴びた。アルコールの残響が一瞬で揮発してしまいそうな風圧だった。
「卒論はもう終わったの?」
奇妙な沈黙を踏み破ろうとして、辰彦は尋ねた。椿は肩を竦めて年の瀬の寒波に慄えながら、苦笑いを浮かべた。
「御正月は全部、卒論漬けですよ」
「全く書いてないの?」
「材料は蒐めてあります。何となく下書きも」
「ちゃんと卒業してくれよ。これまでの苦労が水の泡になるから」
「ふふふ」
椿の悪戯っぽい微笑は、走り込んできた山手線の車両が舞い上げる疾風と轟音に紛れて捉え難かった。コートの端が旗のように揺れた。チャコールグレーのコート、ワインレッドのセーター、そして顎の位置で切り揃えられた軽やかな、明るい色の髪。ドアが開き、未だ混み合っている列車の片隅で、さっきよりも狭まった距離を見えない仕切りのようにして、辰彦は車内放送の画面に表示される上野駅までの所要時間を冷酷な数字のように眺めた。