「Hopeless Case」 24
季節は矢のように駆け巡った。夏季休業が終わると、椿が衰燈舎を訪れる機会は自ずと減った。内定は学士の肩書を前提としていたから、彼女は卒業証書を確実に勝ち得る必要があった。必ずしも勤勉な学生とは言い難い椿は、普通の四年生に比べて取りこぼしている単位数が多く、付け焼刃の精励刻苦が不可欠だった。失恋の痛手を紛らわす為に新宿の喫茶店で古今東西の小説を読み漁っていた時期は、編輯の仕事に携わる上では重要な教養の蓄積に他ならなかったが、学校の事務的な尺度に照らせば怠業以外の何物でもなかった。勿論、今更悔やんでも何にもならない。兎に角、死力を尽くして遅れを取り戻す以外に途はない。
それでも授業のない金曜日だけは、必ず衰燈舎に顔を出して辰彦の個人授業を受講することが慣例となっていた。相変わらず周りの椿に対する視線は冷ややかだったが、椿は努めて何も考えないように心掛けていた。定岡との一件、そして荒城から振り下ろされた無慈悲な鉄槌以来、彼女は自分の振舞いを革め、火に油を注ぐような真似は差し控えるようになっていた。椿が傍若無人の言行を控えるようになると、周囲の攻撃的な視線も自ずと和らいだ。別に誰も殊更に緊迫した社内冷戦の状況を望んでいる訳ではなかった。疑問の点があれば、椿は先ず辰彦を通してそれを解決するように心掛けた。それが辰彦との重要な約束であったからだ。
「実務のことを根掘り葉掘り尋ねるのも結構なんだけどね」
晩秋の金曜日の夜だった。八重洲の地下街にある平凡なカフェで、二人は一日の反省に時を費やしていた。数日前から一気に気温が下がって、地下道を行き交う人々は様々なデザインのコートを纏って足早に歩いていた。
「技術を学ぶことだけが本質じゃない。我々は単なる機械じゃない」
頬杖をついて、角砂糖を泳がせながら、椿は無言で卓子の艶やかな木目を見凝めていた。その態度は明らかに敬虔な生徒の振舞いに相応しいものではない。しかし、辰彦は今更椿の悪辣な態度を咎めようとは思わなかった。彼女が衰燈舎のオフィスで懸命に自分自身を制御していることを彼は知っていた。自分の前で鎧を脱ぎ捨てるのは、彼女が自分のことを畏怖していないという心理的事実の露骨な表明だったが、その点に就いて辰彦は特段の怒りも不満も感じなかった。そこで叱責したからと言って、何が変わるだろう。彼女は愈々追い詰められた鼠のように自暴自棄の叛逆へ逃げ込むだけだ。誰かしら、彼女の味方を引き受ける役割の人間が必要だった。その人選に関しては、これまでの経緯を鑑みれば、辰彦が適任であることは誰の眼にも明瞭だった。いい加減、彼ももう覚悟を固めていた。乗りかかった船なのだ。沖合に出てから岸壁を恋しがっても見苦しいばかりである。
「分かってますよ。何回も聞きましたよ、その注意書き」
「それなのに、一向に君の心は揺さ振られていないように見えるね」
「立ち居振る舞いに気をつけろという意味でしょ? 印刷やら校正やらレイアウトやら、そういう細々した知識以前に、人間として振舞え。そう言いたいんでしょ?」
辰彦に対する椿の口の利き方も、知らぬ間に随分と解れていた。特に辰彦が専ら家庭教師のように附き添いの役割を担うようになってから、その傾向には拍車が掛かっていた。それも本来ならば適切な仕方で咎めるべきだったのだろうが、辰彦は何となく厳しい注意には踏み切れずにいた。本来ならば咎められるべき悪癖が、椿の辰彦に対する無防備な信頼の顕れであるように思われて、彼の虚栄心を心地良く擽ったのである。それは穢れた歓びであるようにも思われたので、オフィスで椿の物言いが崩れかかると、辰彦は鋭い眼つきで表情を引き締めた。周囲に対する配慮の重要性を始終口を酸っぱくして言い聞かされている椿は、それだけで言葉を呑み込んで過ちの露顕を辛うじて回避した。
「人間として振舞うことが一番大事だ。感情的にならないこと」
「小説には、理窟じゃ割り切れない感情が幾つも幾つも書き込んであるじゃない」
「君は小説の登場人物じゃない。君が生きているのは、この眼の前の生々しい社会だ。現実だ」
「小説だって現実よ。単なる絵空事なら、何の意味も感動もない筈だわ」
椿は怯むということを知らなかった。少なくともその瞬間に限っては、彼女は荒城との面談で堪え切れずに流した涙の温度や熱量を完全に忘れていた。彼女は変わり身の早い少女のようだった。目紛しく移り変わる感情や思考に追い立てられて過去と分離してしまう、幼い子供の特性を未だ引き摺っているように見えた。それでも、言葉の隅々に行き渡った奇妙な迫力が、安易な説得を撥ね退けるように力強く脈搏っている。この子にはきっと才能がある、と辰彦は思った。その才能の具体的な輪郭や組成が、掴めているという訳ではなかった。不定形のエネルギーが、凡庸な人間の皮を被って、苦しげに悶えている。それを迂闊に解き放てば、とんでもない大惨事が起こりかねない。だが、ずっとそれを抑圧し続けることは出来ないだろう。そもそも彼女が編輯部の業務に向いているのかどうかも不明であったが、その奇態な才能の熱量を肌で感じる度に、辰彦は心臓が疼くのをどうしても誤魔化すことが出来なかった。