サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

「Hopeless Case」 20

 定岡と遣り合った翌日の金曜日、窓から射し込む光が仄かな茜色を混淆し始めた午後四時、椿は編輯部長の呼び出しを受けた。彼女の実質的な保護者である辰彦も、同席を命じられた。
 定岡との諍いが、何か劇的な破局に結び付いたという訳ではない。悲劇的な惨事が衰燈舎の静かなオフィスに決定的な亀裂を走らせた訳ではない。固より余り饒舌ではない定岡は、胸底に蟠るどす黒い感情を巧く言葉に置き換えることが出来ないまま、憤然と踵を返して、椿の許を足早に立ち去ってしまった。オフィスには息苦しく冷ややかな沈黙と、抑制された会話が充ちた。辰彦は椿の立場を危うくしない為に、敢て声高に、彼女の自制心の欠如を詰った。しかし、椿は膨れっ面で耳を貸さなかった。先輩の忠告に平伏すような殊勝な感情は彼女の持ち分ではなかった。辰彦は心底疲労を感じた。一体この女は、自分の立場を弁えているのだろうか。声を荒らげたり、不愉快な感情を剝き出しにしたりすることに抵抗を感じるタイプの辰彦は、それでも珍しく語気を強めた。相手の心情や個性に配慮することが、君にとってはそんなに難事業なのか。厭味な言い方は、余計に椿の感情を硬化させた。そうやって露骨に保護者のような態度で、私を叱ったり庇ったりするのは止めて下さい。随分と恩知らずな言い分だと、辰彦のみならず、周りで聞き耳を立てていた同僚たちの誰もが思った。たった一人で戦いたいと偉そうに吠え立てることが出来るのは、所詮彼女が幼気な子供であるからに過ぎない。内定者という以外に如何なるレゾンデートルも持たない若い女が、何を言っているのか。衰燈舎の人々が共有する「良識」は挙って、椿の態度に有罪の判決を言い渡していた。尤も、それは明確な言葉としては表示されなかった。それらの民意を、辰彦が自分の言葉に置き換えて、椿の頑迷な反駁と争っていた。見ているだけで疲弊するような光景だった。そして誰かが、或いは定岡本人かも知れないが、検察官に密告した。いや、堂々たる告訴であったかも知れない。
「君は一体、何を考えているんだ。君自身のメリットは何処にあるんだよ」
 指定された別室へ向かう廊下の途中で、辰彦は抑えた声音で椿の真意を問い質した。彼は苛立ちと絶望と、一縷の切なさを併せ持っていた。衰燈舎に入りたいと言い出した椿の熱望と、現に彼女がインターンの身分で示している諸々の振舞いとの間には、奇妙な断絶があるように思われた。確かに彼女は情熱を持ち、積極的な行動を積み重ねている。しかし、それは既に作り上げられた秩序へ馴染もうとする人間の態度ではない。新米の定石を外れている。彼女の言動は悉く周囲の反感を買っている。それが本当に君の希望に適う現実なのかと、辰彦は尋ねたかったのだ。
「私は一刻も早く、この会社の仕事を理解したいと思っているだけです」
「だったら、もう少し謙虚に振舞ったらどうなんだ」
「謙虚に振舞えば、何でも教えてくれるんですか。例えば室原さんとか」
 辰彦の眼裏に、室原香夏子の濃く描かれた眉と、濃厚で重層的なファンデーションの映像が泛んだ。昔から、新人に手厳しいことで知られる彼女の大人げのない態度、癇性の気質にも問題が含まれていることは事実だ。しかし、だからと言って厚かましく接したり、口答えしたり、相手の事情を斟酌しなかったりするのが有効な抵抗の手段であるとは言えない。情熱とは良し悪しだ。それが空転するならば、方々に引火を招くことになる。
「君の情熱を疑う訳じゃないが、情熱を表現する方法にもっと神経を遣ってもらいたい。君の居心地が悪くなるばかりだ」
「説教なら、この後で幾らでも聞かされるんだから、川崎さんまで彼是言わないで下さい」
 切り口上のように言い放った椿の横顔の輪郭が、少しぼやけているように見えた。白い肌に被さる明るい茶髪の毛先が、何かを隠蔽する障壁のように感じられた。彼女は明らかに、辰彦の視線を避けていた。彼は更なる疲労を感じた。こういう場面で泣き出すのは反則であり、狡猾であり、心底うんざりさせられる。散々、周りとの軋轢を悪化させて、揚句の果てに編輯部長の呼び出しまで食らっておきながら、最終的に感情の抑制を緩めてしまうのは卑怯ではないか。辰彦は初めて、椿の為に会社との橋渡しを担った自分の軽率な行動を悔やんだ。
「部長の前で泣き顔を晒すのは止してくれよ。部長は、女の涙が何より大嫌いなんだ」
 椿は何も答えなかった。営業部の男性社員が、怪訝な表情で二人の様子を見遣りながら擦れ違っていった。辰彦は堪え難い居心地の悪さを感じた。何故、自分がこんな役回りを引き受けなければならないのか、少しも腑に落ちなかった。
「聞こえてるのか、椿」
 思わず「高邑さん」という日頃の呼び方を忘れて声を掛けた瞬間に、背筋を冷たい刺戟が走り抜けた気がした。それは錯覚であったかも知れない。鋭い眼つきで顔を上げた椿の眦には、砕けた水晶のような雫が辛うじて睫に獅噛みついていた。