サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

「Hopeless Case」 17

 大学四年の長い夏休みの間、椿は来る日も来る日も、衰燈舎の入居する老いさらばえたビルに入り浸った。同輩の人々から、無類の文学好きで、世間の標準的な規範から逸脱していて、正しいと目される習慣に従うことを望まない、聊か附き合い難いタイプの女子だと思われていた椿が、ゴールデンウィークを迎える前に希望する内定を奪取したという噂は、良くも悪くも、彼女の所属する大学では賑やかな話題になっていた。誰も彼女が率先して有能な就活生の亀鑑となる途を選ぶとは考えていなかった。案外、見た目とは裏腹に臆病で順応的な奴なんじゃないかという、厭味な批評を試みる者も少なくなかった。そうした意見は概ね、椿に恋焦がれながら真っ当な相手として選ばれなかった男の僻みか、若しくは次々と色んな男と枕を共にする悪質な女だと妬む同性たちの積年の宿怨を母胎としていた。無論、椿はそんな風評に耳を貸さなかった。抗っていたのではなく、単に関心が持てなかったのだ。そういう自由な態度が余計に火に油を注ぐことは何となく心得ていたが、だからと言って対策を打つ気にはならなかった。自分はもう、自分の立ち向かうべき懸崖を見付けたのだから、他の問題は総て些事だと決め付けていたのだ。どうせ卒業と共に縁の切れる連中の御機嫌を気象台みたいに予報し続けても益がない。攀じ登るのに必要な手懸り足懸りを見定めるのに精一杯で、椿は過去の生活や因縁には一秒たりとも余分に時間を使いたくなかったのである。
 衰燈舎は、社員十五名の小さな会社で、事務方に数名のパートタイマーを雇っていた。十五名でも、売上高を考えれば多かったかも知れない。しかし社長の方針で「高品質な出版、高品質な文化」という標語が重んじられていたから、人手を切って合理化を徹底するという冷徹な効率主義は寧ろ軽蔑されていた。創業者の孫に当たる社長の森実信一もりざねしんいちは、利益を伸ばして私腹を肥やすという資本主義の鉄則を敢て黙殺するところにダンディズムの理想形を見出していた。そういうアナクロニズムも、椿にとっては好ましかった。その意味では矢張り、彼女は反時代的な、時流にそぐわない変わり種の女子であったと言えるかも知れない。そうでなければ、あんなに粘り強く衰燈舎の門戸を抉じ開けることに執心したりはしなかっただろう。
 入り浸ったとはいっても、彼女は内定者として優遇されたり、懇切な教育的指導を享けたりしている訳ではなかった。そんな時間を捻出し得るほど、働いている先達たちは決して優雅ではなかった。「高品質な出版、高品質な文化」の金科玉条は、聊か余剰に思える人員を虐使し、極限まで働かせることで護られていたからだ。業務の合理化、人件費の抑制は真面目に論じられなかったが、だからと言って春風駘蕩たる渡世が容認されていた訳ではなかったのだ。椿は単なる門外漢の洟垂れ小僧に過ぎなかった。彼らが業務に集中する上で、椿という場違いな若い女はどう考えても目障りだった。
 尤も、椿の側でも、そんなことは百も承知だった。そもそも、開かれていない門戸を何度も乱暴に叩き、門衛を執拗に口説き続けて、漸く敷地へ押し入った身分なのだから、整った歓迎が期待し得ないのは最初から明らかな話だった。邪険にされても、黙殺されても、嫌がられても、椿は一向に気落ちせず、寧ろそうした逆境を開き直って堪能した。校正係の沈黙に鎧われた作業を、少し離れた場所から観察して鬱陶しいと罵られたので、動画を撮らせてくれ、それなら良いだろうと反駁し、辰彦の口添えもあって、何とか計画は成功した。彼女は携帯に保存した動画を幾度も繰り返して眺め、校正という作業の具体的な手順の代わりに(何故なら、校正係の神経質な男性は、椿のことを明確に嫌っていたからだ)、その作業に従事する人の動きを通じて、生々しい質感のようなものを存分に味わった。弟子が師匠の技術を窃み見て学ぶように、言葉にならない微妙な感覚や空気を、椿は貪欲に蒐集して脳裡へ彫り込んだ。
 編輯部長の荒城にも、椿は果敢に話し掛け、積極的に食らい付くように心掛けていた。荒城との面談が、椿の前途を切り拓いたことは紛れもない事実だったから、彼女は親愛と感謝の意を表する為にも、明らかに敬遠されがちな荒城の「鉄面皮」(彼が厚顔無恥であるという訳ではない)を剝ぎ取ることに情熱を燃やしたのだ。荒城は原則として余り笑わないし、言葉の語尾も丁寧ではない。若い女に鼻の下を伸ばすような、分かり易い助平心の片鱗も見受けられない。だからこそ、却って闘志を掻き立てられる。そういう椿の異様な豪胆さは、彼女を遠巻きに眺めている衰燈舎の人々の間で、一つの危険な見世物のような扱いを享けていた。そこには複雑な感情が混じっていた。編輯部のボスであり、絶対的な威厳と能力を誇る荒城の強面に怯まず立ち向かう椿の胆力は、秘密裡の拍手喝采の対象であると同時に、頗る忌々しく無礼な蛮行に過ぎないとも言えた。荒城と椿との特別な関係を、つまり隠匿された親密な紐帯を懸念する声も皆無ではなかった。無論、誰もが荒城の鉄槌を惧れて、そんな浮薄な風聞を声高に口にする愚挙には踏み切らずにいたのだが。