サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

「Hopeless Case」 16

 敢て顔を出さずにいたのは、荒城に喫煙所で言われた「公私混同」という表現が無闇に疎ましかったからだった。辰彦は編輯部の人々の間で鬱陶しい噂が広がることを怖れていたし、ただでさえ彼の同僚たちは夥しい読書の堆積の所為か、豊かな想像力を患っていた。別に疚しい心当たりは欠片もない。行きがかりで直面した見知らぬ少女の直向きな情熱を持て余して、気圧されるように橋渡しの役目を引き受けてしまっただけの話だ。痛くもない肚を探られるのは不快だったから、殊更に警戒を強めただけの話だ。そう思いながら、辰彦は加熱式タバコのデヴァイスに、焦げた葉を詰まらせて、何となく苛立った。歯車が咬み合わないのは嫌いだった。何かが不調であると感じるのは気分の悪い時間だ。何もかも自分の調子で運んでくれるのが最も望ましい。無論、そんなことは滅多に実現の期待出来ない不毛な願いであると知る程度には、辰彦は大人である。それでも、苛立つ瞬間には、尤もらしい理窟は蒸発する。蒸発したものは眼に見えず、見えないのならば追い掛けられない。そういうものだ。
 時間の流れが酷く遅く感じられた。どうしてこんなにタバコの蒸気は何時までも湧出を止めないのだろう。デヴァイスの明滅は何故しつこく維持されるのだろう。そういう不合理な考えが浮かぶほどに、辰彦は面談の結末を待ち侘びていた。執行の日附の明示されない死刑囚の気分に似ているのではないかと思われたが、同時に、これは無責任な比喩、無責任である上に文学的な比喩に過ぎないと彼は自嘲した。誰も死刑囚の本当の心境を知りはしない。だから、無責任な比喩で何かを言い当てた積りに陥るのは、不潔な行いなのだ。
 だが、そんな議論はどうだって構わなかった。問題は今日の雨、そして面談の結論だ。荒城と椿が二人きりで閉ざされた室内で如何なる遣り取りに耽っているのか、辰彦には想像もつかなかった。大体、彼は想像することを好まなかった。同僚たちと同じく、平均値以上の読書家の範疇には属していると思うが、熱烈な中毒患者のように、彼は無辺の虚構を愛している訳ではなかった。想像、妄想、幻影、もう一つの現実、それらの観念は芸術家の内部に宿るものであり、編輯者はもっと冷淡な実利の感覚を持つべきだと彼は真剣に考えていた。だが、真剣に考えるとは一体、どういうことだろう? 真剣に考えるのは、誰でも当たり前に遣っていることだ。それなのに、時々奇妙な違和感が生じて、その持ち前の信念に微かな罅割れが、例えば眼鏡のレンズの表面に薄らと走った繊巧な傷口のように些細な綻びが生じるのは何故だろう。それに気付いてしまうと、真剣という言葉の定義が俄かに怪しくなる。何れにせよ、妄想に引き摺られるのは下品なことだと彼は自分自身に言い聞かせた。それは一つの個人的な信条だった。妄想は人間の心を現実の彼方へ連れ去ってしまう。水平線の向こうに拉致してしまう。それが現実からの悪質な剝離を生み出す要因となる。辰彦は頭を揺さ振って、香りのついた水蒸気を唇が火照るまで強く吸い込んだ。頭の芯に鈍い痛みが生まれるまで吸えば、余計な妄念も遠退くだろうと計算したのだ。
 編輯部のオフィスに戻ってからも、頭の片隅では絶えず、面談の件が外れかかった銀歯のように気懸りだった。こまめに時刻を確かめて、一向に音沙汰がないことに、懸念は一層強く煽り立てられた。結果が出れば、荒城はオフィスに姿を見せるだろうし、辰彦に対して何らかの情報を伝えて来るだろう。合格の見通しは、残念ながら低いと言わざるを得ない。古色蒼然たる雑居ビルに寄宿して、無闇に高尚な出版物ばかりを取り扱い、まるで世を拗ねているような態度で僅かばかりの利益を紡いでいる会社に、不要不急の人材を雇い入れる動機はない。せめて経験の豊富な即戦力の人材であるならば一考の余地もあろうが、相手はどうしようもなく素人だ。出版業のみならず、一個の人間として、単純に世の中の仕組みを知らない、広義の素人だ。つまり、教育に係る投資の規模は大きくなる。真新しい白紙に自由に絵を描けるのだから、変に過去の経験を振り翳して凝り固まった考えをしかねない玄人を雇うよりもマシだと考える人もいるだろうが、それは誰かを新たに雇用するという方針が前提になっている場合の議論である。
「川崎。一服行くぞ」
 知らず知らずに妄想の深みへ溺れていた所為で、辰彦は背後に迫った荒城の頑健な体軀が齎す威圧感にさえ気づかずにいた。咄嗟に上体を捩って仰ぎ見た荒城の顔は、想定していたよりも朗らかに見えた。少なくとも、貴重な時間を浪費させられたことへの露わな憤怒は滾っていなかった。慌てて立ち上がり、四囲の好奇に充ちた視線を仄かに感じ取りながら、辰彦は荒城を追って廊下へ出た。椿の姿は見当たらない。どんな厭味を言われるのだろうか、厭味で済むなら有難いが、と鼠のように敏速に考えながら、辰彦は無人喫煙室で、上司の無骨な指先が摘み出すハイライトの輪郭を眼で辿った。