サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

「Hopeless Case」 35

 湯気の立つ珈琲がそれぞれのデスクの上に鎮座し、書類が飛び交い、内線外線を問わずに卓上の固定電話が鳴り響き、スケジュールとタスクが複雑に絡み合ってペルシア絨氈のように精緻な柄を描き、正月休みの緩慢な自殺のような静寂は打ち砕かれ、蓄積した業務が殺伐たる陳情者のように圧迫的な列を成す。辰彦は無論のこと、椿も多様な雑務に追い立てられて、使い走りの本領を発揮していた。電子メールで送られてきた長短様々の原稿に眼を走らせ、締め切りが迫っているのに未だ届かない原稿の書き手には携帯電話の督促状が電波の海を鷗のように飛んだ。
 長い間、紆余曲折を経て積み上げられたインターンの経験が、徐々に自分の血肉に変わっていることを椿は我ながら心強く、頼もしく感じていた。彼方此方のデスクを飛び回り、繁忙な担当者の指先から零れ落ちた仕事、そもそも伸ばした腕の届かない場所にある仕事を、掃き掃除でもするように椿は拾い集めて次々と自分の背負った屑籠に投げ込んで行った。普段より早く、勤勉な時刻に目覚めた今朝の、暁闇と言うのだろうか、仄かに青みを帯びた艶やかな暗い空の景色が、今では蜃気楼のように遠かった。動き続けて、人々の熱気が充満したオフィスの空気に焙られて、椿の頬はほんのりと汗ばんでいた。窓の外には凍てついた疾風が吹き抜けて、硝子に擦れる音を鳴らしているのに、隔てられた室内には、その冷え切った指先は爪痕すら残せない。
 そんな彼女の、知らぬ間に熟練のとば口に爪先立った姿を、繁忙な業務の合間に、辰彦は幾度も窃み見た。意識の切れ切れに、不意に隙間風のように、椿のことを考える無意味な余白が生まれて、それが彼の視線の統帥権を巧みに奪うのだ。束ねた書類を机の上でとんとんと叩いて揃える刹那、長い電話を卒えて受話器を静かに丁寧に戻した刹那、冷めかけた珈琲の熾火のような溜まりを啜った刹那、パソコンの画面が不意に鈍った通信と内部処理の為に遷移せず待ち草臥れる刹那、辰彦の視線は解き放たれた臆病な飼い犬のように鼻面を椿の方へ向けた。午前中の時間は、そんな風にして遽しく過ぎ去った。概ね、業務の進捗は順調だった。午後への余力を温存しようと、印刷会社に宛てた長いメールを飛ばした後で、辰彦は午前の仕事を切り上げて強張った背筋をゆっくりと伸ばした。莨が吸いたくて立ち上がった途端に広がった視野の一隅に、室原香夏子の言葉に真剣な表情で耳を傾けている椿の凛とした横顔が映り込んだ。一瞬、何だか巧く息が吸えない気がした。辰彦は追い立てられるようにオフィスの混み合った空間を横切り、寒々しい廊下へ出た。右手に握った現代的な電子煙管に視線を落としながら歩く間に、彼は心臓の騒めきを抑えようとして果たさなかった。俯き加減に押し開けたドアの為に、喫煙室の先客に気付くのが少し遅れた。荒城だった。既視感のある光景だ。不可解な気不味さが胸に兆したが、強引に振り払い、低い声で挨拶して、手許のデヴァイスに短い莨を挿し込んで、スイッチを長押しする指先に意識の焦点を合わせた。
「高邑は順調に育ってるみてえだな」
 沈黙を紙袋のように引き裂いて、荒城の威圧的な声音が響いた。尤も、彼の声が威圧的に聞こえるのはデフォルトの仕様であり、別に本人は四囲の威圧を志している訳ではない。首環に繋いだ紐を不意に手繰られたような気分で、辰彦は顔を上げて返すべき言葉を吟味した。
「時間は総てを解決しますね」
「自分の手柄だとは言わねえんだな」
「私は別に何もしてないですから」
「そうか? 熱心な指導は大いに結構なんだがな」
 荒城の言葉の途切れた続きが気懸りだった。辰彦は外方そっぽを向いて、喫煙室の壁面に切られた矩形の明り取りへ蒸気を吐き出した。荒城の鋭利で持続的な視線が自分の頬に触れているのが分かった。誤魔化しの効かない、手強い相手と同席したことは思わぬ不運だろうか、或いは?
「深入りするのは止せよ。良いか、教育は教育だ。分かるな?」
「仰言る意味が分かりかねますが」
 言い掛かりを付けられたような不快感が嘔気のように迫り上がり、咄嗟に答えた声の尖端が鋭く光った。隠さなければならない、矛を収めなければならないと思ったときにはもう手遅れで、荒城の瞳に力強い波動が生まれていた。
「分かんねえ筈はねえと思うけどな」
「私の教育の方法に問題があるのならば、明確に教えて下さい」
 再び重苦しい沈黙が広がって、喫煙室の傍まで近付いていた鏑木が、不穏な空気を察したのか、くるりと身を翻して遠ざかって行った。その気配を肌で感じながら、辰彦は荒城の底冷えするような眼差しから顔を背けずに踏み止まった。
「酒を酌み交わすのも大いに結構だが、世間の常識がそれを何と見るか、想像したことがないとは言わせねえぜ。お前、所帯持ちだろう」
 所帯持ちという古臭い言葉が酷く耳障りだった。辰彦は答えなかった。ただ胃袋の奥底に、水銀を呑んだような不愉快な蠕動を感じて、彼は吸いさしの莨の電源を落とした。